1973年3月30日の日本プロレスのダイナミックシリーズ最終戦の放送を最後にNET(現在のテレビ朝日)はテレビ放送を打ち切りました。
最後の放送は高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)さんがUNチャンピオンになった試合だったね
これにより、日本プロレスはテレビ放映権料を失い、さらには馬場さん、猪木さん、坂口征二、吉村道明等々の選手も失ったことで観客動員数が激減し入場料の激収で会社経営が立ち行かなくなりました。
日本プロレス社長の芳の里は次期シリーズのアイアンクローシリーズを前に興行活動を断念する意向でした。
レフェリーの沖識名さんも退団、営業部員を含むフロントも辞表を出したんだよね
しかし、選手会長でありエースの大木金太郎は選手会主催興行として6戦のアイアンクローシリーズを強行したのです。
アイアンクローシリーズ、主役の外人レスラーは鉄の爪フリッツフォンエリックだね
日本プロレスに残った各選手の貯金を崩して決死の賭けにでたシリーズだった。
全日本プロレスが招聘しようとしたフリッツフォンエリックを横取りし、さらには前シリーズより残留のキラーカールクラップも参加した。
クラップは前シリーズで短期間だけどインタータッグチャンピオンになったんだよね
開幕戦は4月13日、大阪府立体育会館であった。
ちなみに同時期に全日本プロレスは第一回チャンピオンカーニバルを開催。
新日本プロレスは坂口が合流し念願のテレビ放送が始まりました。
日本プロレスアイアンクローシリーズの開幕戦のメインは、
インターナショナルヘビー級選手権
大木金太郎
(王者)
vs
フリッツフォンエリック
(挑戦者)
大木は血みどろになりながらも引き分け防衛に持ち込みました。
しかし、大木ら選手の願いもむなしく、観客動員数は主催者発表で4000人…実数は1000人程度。
閑散とした会場を見て、大木ら選手はようやく現実を知ったのです。
気づくのが遅い!
翌14日、東京の池上、本門寺で日本プロレスの選手、芳の里らが集まり記者発見が行われました。
つづく
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