1973年3月9日、前日に日本プロレスのダイナミックシリーズ最終戦が終わり、日本プロレスの事務所では大木金太郎が記者会見を緊急で開きました。
巷では坂口征二が退団し、日本プロレスはもう駄目だろうと声が出ていました。
坂口さんが新日本プロレスとの合併を提案したのに大木さんが猛反対して、坂口さんは日本プロレスを辞めちゃったんだよね
しかし、大木は「一致団結して日本プロレスを必ず守っていきます。」と世間の声に反論する宣言をしました。
一方で、予定通り新日本プロレスと合流した坂口はアントニオ猪木さんと共にNET(現在のテレビ朝日)のテレビ放送開始の記者会見に出ました。
NETは日本プロレスの放送を打ち切り、4月から新日本プロレスのテレビ放送を開始すると正式に発表したのです。
この発表を受けても大木は「NETは4月以降も自分達を見捨てることはない、新日本プロレスを放送しても隔週で日本プロレスを放送してくれると思う」と発言していたが…甘い見通しで、まさに空気を読んでいなかった。
この時点で日本プロレスのタイトルホルダーは、
インターナショナルヘビー級チャンピオンが大木金太郎。
インターナショナルタッグチャンピオンが大木金太郎、上田馬之助。
UNヘビー級チャンピオンが高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)。
アジアタッグチャンピオンが松岡厳鉄、グレート小鹿。
このメンバーで日本プロレスを守る…のは無理だと思います。
高千穂さん以外、華がない…ね
さらにメインレフェリーの沖識名が退団しました。
力道山時代からレフェリーを務めていた沖識名も日本プロレスは無理だと感じたのでしょう。
さらにフロントや営業部員までが辞表を出したのです。
2年前までは馬場さん、猪木さん、坂口、吉村道明…豪華メンバーだったのに…誰もいなくなりました。
これで日本プロレスの崩壊は決定的となったのですが、ここで大木が掛けに出ました。
つづく
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