猛将親父 〜第51話 三子教訓状〜 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

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目次



天下を競望せず…

わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。


弘治3年(1557年)12月末、毛利元就(もうりもとなり)と毛利隆元(もうりたかもと)は周防から吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に帰着した。



コアラ周防で大内氏(おおうちし)の遺臣が蜂起して、2人は鎮圧に行ったんだよね



元春は吉田郡山城に呼ばれていた。そこには小早川隆景(こばやかわたかかげ)も呼ばれていた。


2人を呼んだのは隆元であった。


元春「兄上、周防鎮圧お疲れ様です。」

隆元「うむ、この後は九州の大友(おおとも)とも戦っていくことになるであろう…それはともかく、此度2人を呼んだのは、これを見せたいからだ。」


隆元はある書状を出した。



隆景「これは…父上からの書状ですが…長い、長い…」


元春「父上からの教訓状ですか…それにしても長いの。」





元就から14箇条になる教訓状であった。


隆元「父上が富田の勝栄寺(しょうえいじ)で書かれたものだ。読んでみよ。」



そこには一族協力を説き、さらには安芸の一国人領主から五ヶ国を領する中国地方の戦国大名としての体制を宣言していたのだ。



元春も隆景も「ふぅ〜」と大きなため息が出た。


元春「父上らしい…長い文章ですな。」


隆景「繰り返し同じことが書かれてますね。」


隆元「先日の我ら兄弟の喧嘩を見て心配になったのであろう…これだけの長い文章を書かれ、翌日は寝込んでおった。我らはそれだけ父上に心労をかけてしまったのだ。」


元春も隆景も申し訳ない表情になった。


元春「わしや隆景は己の家のことばかり言い過ぎであった。毛利あってこその我ら…誠にその通りだ。」


隆景「姉上のことも書かれておる。心配されておるのだな…我らがしっかりせねば。」


隆元「……2人とも…先日のわしの隠居すると言った発言…あれは取り消す!幼少より父上の教えをわしは実践せねばならん。」


元春「吉川も小早川も毛利本家…兄上をお支え申す。」


隆元「うむ、これが毛利の新たな体制だ。」



毛利本家を吉川家、小早川家が支える毛利両川体制の誕生であった。




隆元は元就への返書を書き、それに元春、隆景が花押を書き、元就に提出した。


元就はそれでも心配だったのか、さらにもう1通書状を書いたのだ。



兄弟仲が悪くなれば毛利家は滅亡すると思うように


毛利元就



コアラ世に言う三子教訓状ってこうしてできたんだね



その後、元春は元就に呼ばれ、


元就「元春、石見銀山(いわみぎんざん)を取るぞ」



再び石見銀山攻略に乗り出したのだ…






つづく…





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