1973年2月6日、日本プロレスの坂口征二と新日本プロレスのアントニオ猪木さんの記者会見は両団体の合併でした。
2人とも、いい笑顔だ
この話は日本プロレスの中継放送をしていたNET(現在のテレビ朝日)が坂口に猪木さんとの合併、それができなければ放送を打ち切ると通告してきたのです。
坂口は日本プロレス社長の芳ノ里に相談し、全権を任されていました。
坂口はグレート小鹿にも相談し日本プロレス選手会も合併に賛成したのです。
日本プロレスとしてはテレビ放送の視聴率が下がり、さらには観客動員数まで下がっており、その上、NETの放送打ち切りとなれば会社存続の危機となっていました。
会社存続のために一度は追放した猪木さんとの合併は背に腹はかえられぬことだったのです。
猪木さんは新日本プロレスは億の負債を抱えて、こちらも会社存続の危機でした。
日本プロレスとの合併で、NETの放送が始まれば放映権料で負債を完済でき、選手層が厚くなり、さらにはNWA会員である芳ノ里のルートで大物外人レスラーの招聘も可能になるなど、いいこと尽くめでした。
馬場さんの全日本プロレスより先にNWAルートができるってわけだね。
合併プランは新日本プロレスは発展的解消、日本プロレスの選手は独立し、新たな団体に双方合流。
社長は猪木さん、副社長は坂口、会長として芳ノ里が就くということでした。
新たな団体は日本プロレスを継承するということで団体名は日本プロレスでした。
今までの日本プロレスとは違う日本プロレスだね
芳ノ里が会長に就くのは坂口がプロレス転向時に世話になったため、猪木さんとNETに提案したのでした。
プロレス転向時の坂口さんだね
全てが上手くいく…かに見えましたが…
合併案に猛反対した人物が出てきました。
それは韓国から戻ってきた大木金太郎だったのです。
つづく
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