1972年10月にジャイアント馬場さんが全日本プロレスを旗揚げし、日本のプロレス界は日本プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスと4団体となりました。
女子プロレスは除く…だね
全日本プロレスは旗揚げ後、10月31日に鶴田友美、後のジャンボ鶴田が入団しました。
プロレスに就職しますって言葉が有名だね
さらに日本人レスラーが不足していたが、ザ・デストロイヤーが馬場さんとの対決を負け日本側に入ったのです。
国際プロレスは1972年はストロング小林がIWAワールドリーグ戦で優勝しました。
モンスターロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)に勝って優勝したんだよね
さらに、今まで日本プロレスとの興行戦争に負けていたが、11月の愛知県体育館大会では日本プロレスに観客数で勝ったのです。
この時期が国際プロレスの全盛期だった気がします。
その日本プロレスは馬場さん退団の後、海外から高千穂久明や松岡厳鉄を凱旋帰国させ、人気回復を計りました。
10月31日の大阪大会で、ダニーホッジのNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦したんだよ
しかし、馬場さん猪木さんがいる頃の人気は回復せず、観客数もテレビ放送「NETワールドプロレスリング」の視聴率も減っていました。
新日本プロレスは外人レスラーのネームバリューが低く、テレビ放送もなく、かなりの赤字を抱え経営危機でした。
猪木さんと日本プロレスでクーデターを起こし、新日本を旗揚げた木村氏は赤字の新日本を見限って辞めてしまったのである。
しかし、新間寿さんが入社したのである。
新間さんが後に過激な仕掛人って言われるんだよね
この状況で日本プロレスを放送しているNET(現・テレビ朝日)は視聴率が落ち込み、打開策を打ち出した。
それが日本プロレスと新日本プロレスの合併でした。
NETは、マサ斎藤を仲介役とし、猪木さんと坂口征二を合わし、2人は話し合っていたのである。
そして、1973年2月8日、猪木さんと坂口は合同記者会見を開いたのだ。
発表したのは新たな日本プロレスを作ると言うことだった…。
つづく
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