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天下を競望せず…
わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。
「陶晴賢(すえはるたか)と戦う!」
天文23年(1554年)5月11日、毛利元就(もうりもとなり)は安芸の国人衆に大内、陶と断交する旨を伝えた。
そして12日、毛利、吉川、小早川(こばやかわ)と安芸の国人衆の軍勢3,000で出陣した。
毛利家の決死の兵力だね
まずは大内方の栗田肥後入道(くりたひごにゅうどう)が城番を務めている佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を攻めた。
ここを毛利家家臣の児玉就方(こだまなりかた)が城方を説得し、戦わずして開城となり、栗田肥後入道は周防へ送還した。
大内、陶方は石見の吉見正頼(よしみまさより)攻めで多くの兵が出ていたから銀山城には兵が少なかったんだね
次に己斐城(こいじょう)を攻めた。
城主の己斐直之(こいなおゆき)に戦う意志はなく降伏した。
その後、江良賢宣(えらかたのぶ)が守る桜尾城(さくらおじょう)に進軍。
桜尾城の支城、草津城(くさつじょう)を落とし、
その勢いで桜尾城をも落とした。
桜尾城は元春と熊谷信直(くまがやのぶなお)が事前に調略をしていたのだ。
元就「元春、やりおるな。」
元春「此度は晴賢と戦うまで戦力落とさず行かなければなりませぬゆえ。」
桜尾城が落ちたことにより対岸の厳島(いつくしま)も毛利が奪取した。
毛利軍は1日で佐東銀山城、己斐城、草津城、桜尾城、そして厳島を押さえたのだ。
そして草津城に児玉就方、桜尾城に桂元澄(かつらもとずみ)、厳島に己斐直之を置いて守らせた。
さらに来たる決戦に向け、小早川隆景(こばやかわたかかげ)は水軍の守りを固めたのだ。
元就「隆景も抜かりないな。」
隆景「ここは瀬戸内海の覇権もかかってますゆえ。」
毛利軍の動きを知った晴賢は怒り狂っていた。
晴賢「わしがいない間にコソコソと安芸を掠めとる元就らしい姑息なやり方だ!!吉見を片付けて、すぐさま毛利を討伐する!」
決戦は近づいていたのだ…
つづく…
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