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天下を競望せず…
わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。
天文21年(1552年)7月から尼子(あまこ)勢が大内配下の備後国を攻めてきた。
元春「晴久(はるひさ)め!大内の内乱につけ込んできおって!皆、怯むな!」
尼子晴久は大内義隆(おおうちよしたか)死去後、幕府より山陰山陽8ヶ国(出雲、隠岐、伯耆、因幡、美作、備前、備中、備後)の守護及び幕府相伴衆に任じられていた。
一方、義隆を討った陶隆房(すえたかふさ)は義隆の姉の子で九州は豊後の大友義鎮(おおともよししげ)の異母弟で義隆の養子でもある大友晴英(おおともはるひで)を大内家の新たな当主として大内家の実権を握っていた。
そして隆房は新たな当主から一字をもらい晴賢(はるかた)と改名したのだ。
晴久は大内の内乱に乗じて備後の大内配下を攻めてきて、晴賢は内乱後の処理に追われており、代わって毛利元就(もうりもとなり)と安芸の国人衆が対抗してきたのである。
元春は吉川勢を率いて出陣していた。
元春の元には元就の忍び、世鬼政時(せきまさとき)が来ていた。
元春「尼子勢はわしが必ず追い払う。ところで毛利家はこの後、どうするのだ?陶殿に従っていくのか?父上は何か言っておらぬか?」
正頼「大殿(元就のこと)はしばらくは大内家の様子を見るとおっしゃってます。しかし、隆元(たかもと)様は陶殿討伐を大殿に進言しております。」
元春の兄、隆元は大内家の人質として大内義隆の元にいた時期があり、義隆には恩を感じていたのである。
元春「兄上が自己主張をするのは珍しいのではないか。」
政時「大内家に滞在した時も長いゆえ、陶殿の人となりを理解しておるのでしょう。」
元春「うむ、ただ今は毛利の軍勢では大内家の軍勢には数でも敵わぬ。」
元春らは翌年、天文22年10月まで続いた攻防に勝ち、尼子を撤退させたのである。
ところが戦後の処理で陶晴賢と毛利が揉めたのだ。
毛利勢は陥落させた備後の旗返城(はたがえしじょう)を守りたいと主張したが、晴賢は家臣の江良房栄(えらふさひで)を城番としたのだ。
元就『陶殿は安芸の支配は我ら毛利家に任せると約束したではないか…?』
晴賢は、
『毛利をこれ以上、増長させてはならぬ。』
と考えており、家臣の房秀を毛利の監視役として送ってきたのだ。
毛利と陶の間に確執が生まれたのだ。
その頃、石見の吉見正頼(よしみまさより)が陶に対し挙兵したのだ。
正頼は義隆の姉を正室に迎えており、義隆には恩義を感じていたのだ。
晴賢は正頼を討つべく、大規模な石見遠征を計画した。
そして毛利にも出陣を要請してきたのである…。
つづく…
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