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天下を競望せず…
わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。
陶隆房(すえたかふさ)が主君・大内義隆(おおうちよしたか)に対して謀反を起こす…その噂が山口だけでなく安芸国内までに流れている中、毛利元就(もうりもとなり)隆元(たかもと)、元春に隆房より密書が送られており、元就は様子を見ていた。
隆房さんとは毛利家を味方にしておきたいんだね
元就『陶殿からは安芸、備後の国人衆をまとめる権限を与えられているが…陶殿はいつ動くのか…?』
天文20年(1551年)8月20日、ついに隆房が動いた。
隆房は内藤興盛(ないとうおきもり)らと共に挙兵したのだ。
陶軍は厳島の神領、桜尾城(さくらおじょう)を接収した。
この隆房の動きを見た元就は佐東銀山城(さとうかなやまじょう)や周辺地域を接収し山陽道の要衝を押さえた。
8月28日、隆房率いる陶軍本隊は徳地口から、隆房の家臣、江良房栄(えらふさひで)、宮川房長(みやがわふさなが)率いる別働隊は防府口から山口に侵入。内藤興盛の軍も合流した。
これに対し大内義隆は居館を出て山麓の法泉寺(ほうせんじ)に退き、本陣を置いた。
義隆さんは隆房さんの挙兵をギリギリまで信じていなかったんだね
義隆に味方する大内家の重臣は冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)くらいで兵は2,000〜3,000だった。
陶軍は10,000人くらいだったらしい
義隆軍は逃亡する者が相次ぎ、山口を出て長門に向かった。
義隆は縁戚である石見の吉見正頼(よしみまさより)に海路から向かおうとした。
しかし…海が荒れ石見に行けず、長門深川の大寧寺(たいねいじ)に籠った。
義隆「……隆豊、もはや、ここまでだ。」
隆豊「御館様!」
義隆「ここまで付き従ってくれ、礼を言うぞ。」
9月1日、義隆は自害した。
隆豊は義隆の介錯を務めた後、陶軍に突撃し討死した。
義隆の子、義尊(よしたか)も捕らえられ、殺害されたのだ。
陶隆房は義隆の自害の報を聞き、長門の方向を向き手を合わせた…
隆房『御館様…大内家はわしが強くします。』
つづく…
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