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天下を競望せず…
わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。
天文19年(1550年)夏も終わりになった頃…
元春は新たな居城、日野山城(ひのやまじょう)の整備拡張を行っていた。
日野山にはそれまで小さな城はあったが、元春はそこに住みながら整備拡張していたのである。
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元春の元へ毛利元就(もうりもとなり)の忍び、世鬼政時(せきまさとき)がやって来た。
元春「政時が来るとは、急ぎの用事か?」
政時「はい。まずはこちらをご覧ください。」
政時は1通の書状を渡した。
元春「これは…陶隆房(すえたかふさ)殿からの密書ではないか…」
大内義隆(おおうちよしたか)の重臣、陶隆房からの書状だったのである。
そこには「内藤興盛(ないとうおきもり)、杉重矩(すぎしげのり)と相談し、大内義隆様を廃する。そして義隆様の子、義尊(よしたか)様を跡目にする。」と書かれおり、協力を求めていた。
元春「陶殿…これは謀反の誘いか…」
政時「大殿(元就のこと)と隆元(たかもと)様にも同様の密書が来ております。大殿は元春様にすぐ吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)に登城せよと申しております。」
元春「うむ、すぐ行こう。」
郡山城には元就、隆元、そして毛利家の重臣が集まっていた。
元就「元春、密書は読んだな。」
元春「はい、この密書はわしと父上、兄上宛ですか?」
隆元「うむ、2通だけだが、陶殿の意向は安芸の国人衆にも伝わっているであろう。」
元春「大内家は武断派の陶殿と文治派の相良武任(さがらたけとう)と2つに割れていると感じていましたが…陶殿が義隆様を廃すると戯れ言を漏らしていましたが…」
隆元「本音だったのであろう。」
元就「今は返事は致さぬ。決定的な動きを見るまでは様子を見よう。」
元春「このゴタゴタに尼子(あまこ)が動くこともありえます。わしは尼子に備えておきます。」
元就「うむ、頼むぞ。」
山口では隆房が謀反を起こす、義隆、武任を幽閉すると様々な噂が流れていた。
11月には隆房は自らの居城、若山城(わかやまじょう)に病と称して引き篭もり、山口には出仕しなくなった。
元就は大内家の様子を見て、隆房に協力する姿勢を取っていた。
元春は、
『兵の数から言っても陶殿のほうが多いであろう。義隆様は陶殿だけでなく、民からも見放されている。』
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天文20年(1551年)8月、ついに事態は動いた。
隆房が挙兵したのである…。
つづく…
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