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天下を競望せず…
わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。
天文11年(1542年)4月に出雲に入った大内(おおうち)軍は赤穴城(あかなじょう)を攻めたが、中々落ちず…
7月末に大内軍は陶隆房(すえたかふさ)、吉川興経(きっかわおきつね)らが総攻撃をかけ、ようやく落ちたのだ。
吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)にいる美し(よし)や次郎(じろう、後の元春)はこの報せを聞いて、
美し「興経が手柄を上げたのですね…」
吉川家出身の美しは興経が裏切るのではと心配していたのだ。
次郎「されど、母上…次郎は大内軍の進軍が遅いと思います。これでは味方が離れてしまうかもしれませぬ。」
美し「…一理ありますね。しかし、ひとつひとつ確実に攻めることも大事です。」
次郎は美しの言葉とは違い、出雲は一筋縄ではいかないところだと感じていた。
10月に入り、大内軍は三刀屋峯(みとやみね)に本陣を置き、さらに翌年、天文12年(1543年)1月には軍議を開いた。
毛利元就(もうりもとなり)は持久戦を主張した。
元就「尼子(あまこ)はまだ力を温存しています。ここは敵地、まずは遠く離れたところに陣を置き、周辺の国人衆を調略して尼子を孤立させるのです。そうすれば、おのずと尼子は敗北します。」
元就らしい調略を使い、じわじわせめる戦法だった。
しかし、陶隆房の家臣の田子兵庫助(たごひょうごのすけ)が猛反対。
兵庫助「我が軍勢は四万、月山富田城(がっさんとだじょう)の近くの京羅木山(きょうらきざん)に陣を置き、一気に城を攻めるのが良策です。」
元就は再三持久戦を主張しましたが、大内の重臣である隆房の家臣の策が採用されたのだ。
3月になり、京羅木山に本陣を移した大内軍は攻撃を開始した。
次郎は大内軍が攻撃を開始した報せを聞いて、
次郎「遅い!いつまで敵地出雲にいるのだろうか!?」
次郎は不安をふき消すために剣術の稽古に打ち込んだ。
吉田郡山城に次に入った報せは、次郎の不安が的中したものだった。
次郎「!!吉川が裏切っただと!?」
美し「興経が…!?」
吉川興経が大内を裏切り、月山富田城に入ってしまったのだった…
つづく…
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