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天下を競望せず…
わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。
天文9年(1540年)12月…
ついに毛利元就(もうりもとなり)が頼りにしていた大内氏(おおうちし)の援軍が吉田郡山城の東側にある山田中山に到着、その兵数10,000であった。
大内軍を指揮するのは大内氏の重臣、陶隆房(すえたかふさ)である。
これを見た元就は大内とともに尼子(あまこ)軍に総攻撃をかけるべく準備を始めたのだ。
元就は陶に尼子本隊を牽制してほしいと伝え、宮崎長尾に陣取る尼子方を攻める策を軍議で家臣に伝えた。
その軍議で、
「父上!」
軍議の席に現れてたのは、次郎(じろう、後の吉川元春)であった。その姿は鎧を着けていたのだ。
次郎「父上!我は生きるために戦います!初陣、お許しを!」
元就「…この上は致し方ない。次郎!出陣するからには恥ずかしい戦をするでないぞ!初陣許す!」
次郎「はい!」
我が父、次郎は11歳で初陣を果たすことになったのだ。
年が明け、天文10年(1541年)1月、元就の策通り毛利軍と大内軍は尼子軍に総攻撃をかけた。
宮崎長尾に陣どる尼子軍を攻めた毛利軍3,000騎に次郎の姿もあった。
次郎「かかれ!」
次郎は何人もの敵兵を討ち取ったのだ。
これを後に知った元就は、
元就「わしは戦では次郎には敵わない。」
と言ったそうだ。
一方、大内の援軍で武が悪くなった尼子の総大将、尼子詮久(あまこあきひさ)は大叔父である尼子久幸(あまこひさゆき)に撤退を進言されていた。
久幸「殿!このままでは、尼子は大損害…いや命も危うくなります。」
詮久「…30,000もの兵がありながら、なぜ…」
久幸「雪か降れば兵糧の補給路を失います。そうなれば全滅…ここは忍んで撤退を!!」
詮久「…」
久幸「ここはわしが…臆病野州の最期を見よ!!」
久幸は手勢500を率い大内軍と激怒したのだ。しかし、矢に討たれ討死したのだ。
久幸の討死を知った詮久は全軍撤退を命じたのだ…。
つづく…
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