私、細川政元(ほそかわまさもと)様の忍びであり乳母でもあった紗奈(さな)です。
私は政元様の命で政元様亡き後の世がどうなったかを見てきました。
それをここで語りたいと思います。その⑤です。
永正15年(1518年)8月、幕府の軍事力の要、大内義興(おおうちよしおき)が管領代を辞し堺へ出発、10月には自らの領国、山口へ帰国したのです。
義興は将軍、足利義稙(あしかがよしたね)様や細川高国(ほそかわたかくに)と不仲になっていました。
義興と上洛した石見や安芸の国人衆が長らく在京に耐えられず、勝手に帰国するものが続出していました。
さらに出雲の尼子経久(あまごつねひさ)が領国拡大しており、これに義興は危機感を抱いたのです。
不穏となった義稙、高国政権。これを見た細川澄元(ほそかわすみもと)は絶好の機会と捉え、三好之長(みよしゆきなが)と永正16年(1519年)阿波を出陣。
10月に澄元軍は摂津に侵入、翌年1月には澄元に呼応した山城国で土一揆が発生したのです。
動揺した高国は近江に逃亡しました。ところが義稙様は高国に見切りをつけて、澄元支持を表明したのです。
之長は澄元に先立ち、入京しました。そして澄元は義稙様から細川京兆家の家督相続を認められました。
之長は澄元の代理で寺社への禁制発給や高国派の追討命令などを発したのです。
この状況を逃亡した高国が黙ってみてるわけもなく、永正17年(1520年)5月、近江の六角定頼(ろっかくさだより)の支援を受け、五万の大軍で攻めてきたのです。
迎え撃つ之長の軍は五千…さらに大将である澄元は伊丹城に滞在しており、兵の士気も上がらず…
京の等持院の戦い(とうじいんのたたかい)で之長の軍は敗北。
之長は京から逃げることができず、高国軍に捕まり処刑されました。
之長の死を知った澄元は阿波に逃げ帰り、6月10日に病で死去したのです…
細川政元(ほそかわまさもと)様亡き後、私が見たのはここまでです。
結局、政元様の養子であった澄之(すみゆき)、澄元も亡くなり、養子であったと言われる高国が政権を取ったのです。
政元様はこの状況を予測していたのでょう。
争乱となる世を…
この後、高国は内部争いが起こり、そこから澄元の子・晴元(はるもと)に攻められ自害したと聞きました。
争乱が治まるのは…まだ先のことです。
外伝、おわり
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