私、細川政元(ほそかわまさもと)様の忍びであり乳母でもあった紗奈(さな)です。
私は政元様の命で政元様亡き後の世がどうなったかを見てきました。
それをここで語りたいと思います。その④です。
細川高国(ほそかわたかくに)と細川澄元(ほそかわすみもと)の激突が近づいた永正8年(1511年)8月14日…
前将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)様が近江の水茎岡山城(みずくきおかやまじょう)で亡くなったのです。
京に帰れる望みが見えてきたのに…享年32歳だったんだ
丹波から高国派が京を目指し攻めてくるに対し、細川政賢(ほそかわまさかた)を主将とする澄元派は丹波国と山城国の要衝である船岡山城(ふなおかやまじょう)に陣取っていました。
高国派の高国軍と大内義興(おおうちよしおき)軍、総勢二万が船岡山城を攻めたのです。
大内軍には毛利氏(もうりし)や吉川氏(きっかわし)など西国の国人衆がいっぱいいたんだよ
澄元派は播磨から赤松義村(あかまつよしむら)が援軍としてくるはずが摂津で高国派の抵抗に遭い京に入れず、さらに澄元の本拠地、阿波勢や三好之長(みよしゆきなが)の畿内上陸もありませんでした。
8月22日深夜、大内軍に夜襲をかけられた澄元派は数時間で崩壊し、政賢は討死、澄元は阿波へ逃亡しました。
澄元の地元である阿波勢や三好之長の参戦がなかったのは、阿波守護家の長老で澄元を支えていた細川成之(ほそかわしげゆき)が留めていたと言われています。
そして、その成之も同年9月に亡くなりました。
成之さんは澄元さんのお祖父さんなんだ、78歳で亡くなったんだよ
義澄様が亡くなり澄元派がいなくなった京は再び足利義尹(あしかがよしただ)様の政権になりました。
しかし、義尹様はたびたび高国、義興らと対立し、永正10年(1513年)3月には京を出奔し甲賀に逃れたのです。
この時、病になった義尹様は名を義稙(よしたね)としました。
義稙様に対し高国、義興らは将軍に背かない旨の起請文を提出、病回復後の5月にようやく義稙様は帰京したのです。
起請文には高国さん、義興さん以外に畠山尚順(はたけやまひさのぶ)さん、畠山義元(はたけやまよしもと)さんの4人の連名だったんだよ
しかし、その後も高国と義稙様の対立はあったのです。
その対立がさらに激しくなることが永正15年(1518年)にありました。
それは、大内義興が管領代を辞して山口へ帰国したのです…。
つづく…
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