外伝「白の執権」〜その後の北条氏②です。
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1244年、幼くして京から鎌倉に来た将軍・藤原頼経 (ふじわらのよりつね)はすでに27歳に成長していました。
これまで頼経は将軍とは名ばかりで執権北条氏の傀儡だったのです。
頼経さんが鎌倉に来た時、北条政子(ほうじょうまさこ)さんや北条義時(ほうじょうよしとき)さんが幕府を仕切っていたんだよね
この頼経の側近に名越北条光時(なごえほうじょうみつとき)、三浦泰村(みうらやすむら)などの反執権勢力がいたのです。
三浦泰村は父が三浦義村(みうらよしむら)、妹が北条泰時(ほうじょうやすとき)の最初の正室・矢部禅尼(やべぜんに)でした。
矢部禅尼さんは「白の執権」の本編では優子(ゆうこ)さんの名で出ていたね。
将軍・頼経を中心に反執権勢力が形成されつつあり、さらに京では頼経の実父・九条道家(くじょうみちいえ)が関東申次として幕政に関与しようとしてきたのです。
道家さんは北条氏に反感を持っていたんだよね
この状況に危機感を抱いた執権・北条経時(ほうじょうつねとき)は、
経時「頼経様には将軍を辞めていただき、その子の頼嗣(よりつぐ)様に引き継いでいただこう。」
将軍は頼経の子・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)が就任したのです。頼嗣はこの時、わずか6歳。
経時は頼嗣を急いで元服させ自らが烏帽子親となるなど、主導的な立場で動いていたのです。
しかし、将軍を退いた頼経は大殿(おおとの)と称し鎌倉に居て頼嗣を補佐する立場をとったのです。
反執権勢力も評定衆に新たに泰村の弟・三浦光村(みうらみつむら)や千葉秀胤(ちばひでたね)を加え巻き返してきたのです。
これに対し、1245年、経時は妹・檜皮姫(ひわだひめ)を頼嗣に嫁がせ、将軍の外戚としての立場を獲得し将軍後見役となったのです。
この頃から経時は心労がたたり、体調を崩し、1246年にはさらに酷くなったのです。
そして3月、経時の館で『深秘の御沙汰』と呼ばれる秘密会議が行われ、経時の後の執権に弟の北条時頼(ほうじょうときより)が着くことが決まったのです。
経時さんには2人の男子がいたんだけど、幼くて、この混乱な状況を乗り越えるには難しかったんだね。
その後の4月…経時は亡くなりました。享年23歳。
執権となった時頼にはいきなり騒動が起きたのです。
つづく
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