1560年、関東では長尾景虎(ながおかげとら)が小田原北条氏(おだわらほうじょうし)を攻める小田原城の戦いが起きています。
1556年、美濃国ではマムシと言われた斎藤道三(さいとうどうさん)が子の斎藤義龍(さいとうよしたつ)に叛かれ、討たれました。
これが「長良川の戦い(ながらがわのたたかい)」です。
1551年、周防山口の大内義隆(おおうちよしたか)が家臣の陶隆房(すえたかふさ)の謀反により長門の大寧寺(たいねいじ)で自害しました。
義隆を討った陶隆房は義隆の甥・大内義長(おおうちよしなが)を傀儡として掲げ、大内氏の実権を握りました。
1555年、晴賢は大内氏と決別した安芸国の毛利元就(もうりもとなり)を攻めました。
元就は兵3000〜4000でしたが安芸国の厳島(いつくしま)に晴賢の兵20000〜30000を誘い込み、奇襲で晴賢を討ったのです。
これが「厳島の戦い」です。
元就は大内義長も討ち、周防山口を治め勢力を伸ばしました。
1560年、「八幡の武将」の本編で触れましたが尾張国の織田信長(おだのぶなが)が駿河国の今川義元(いまがわよしもと)を奇襲で討った「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」が起きています。
桶狭間の戦いの後、それまで今川の人質であった松平元康(まつだいらもとやす)は岡崎城(おかざきじょう)に入り、今川氏から離れ、戦国大名の道を歩み始めました。
子が親を、家臣が主君を、少数が多数を討つ…まさに下剋上(げこくじょう)ですね。
さて「八幡の武将」の次回は小田原城の戦いの後を描きます。
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