その①はこちら⬇️
1526年、駿河国の今川氏親(いまがわうじちか)が亡くなり、後を継いだのは14歳の氏輝(うじてる)でした。
若い氏輝を後見人として補佐したのが母である寿桂尼(じゅけいに)です。
今川氏は当主が変わった後、甲斐国の武田氏(たけだし)と和睦をしたのです。
今川氏とともに武田氏と対立していた北条氏綱(ほうじょううじつな)は驚いたことでしょう。
氏綱「対立していた武田と和睦とは…。しかし当主が変わり若い氏輝殿では大変だから、一旦和睦したのだろう。」
氏綱は和睦は一時凌ぎと思い、今川氏との関係を切ることなく保っていきました。
氏綱の予想どおり、1535年に成長した氏輝の今川氏と武田氏の和睦は崩れ、駿河国と甲斐国の国境で交戦状態になったのです。
これを見た氏綱は嫡男・氏康(うじやす)とともに今川氏に呼応して甲斐国の都留郡に侵攻、都留郡山中で戦が始まったのです。
この戦いは山中の戦いといい、武田信虎の弟・勝沼信友(かつぬまのぶとも)は討死し、北条氏が勝利したのです。
しかし、武田氏と同盟関係の扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が氏綱・氏康が留守の相模国に攻める気配があったので北条氏は山中から撤退したのでした。
翌年の1536年、今川氏輝が急死し今川氏はまた家督争いが勃発したのです…。
つづく…


