私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。
(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗ってます。)
1518年、早雲は嫡男・氏綱(うじつな)に家督を譲り隠居しました。
その後、早雲は家中の主要人物に会っており、私も早雲に呼ばれ伊豆の韮山城(にらやまじょう)に行きました。
この頃、私は菊寿丸(きくじゅまる)と名乗っていました。
早雲「来たか、菊寿。」
菊寿丸「父上、お体はいかがですか?」
早雲「思いの外元気だ。菊寿、僧であるそなたに見てほしいものがある。」
早雲は書状を出しました。それは長々と書かれた書状でした。
菊寿丸「これは…?」
早雲「我が家の家訓だ。内容を読んでみてくれ。」
そこには21箇条に及ぶ条文が書かれていました。
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第一条
第一仏神を信じ申すべき事
第ニ条
朝はいかにも早く起くべし。遅く起ぬれば、召仕ふ者迄由断しつかはれず公私の用を欠くなり。果たしては必ず主君にみかぎられ申すべしと深く慎むべし。
第三条
夕べには、五つ以前に寝しずまるべし、夜盗は必ず子丑の刻にしのび入る者なり。宵に無用の長雑談、子丑に寝入り家財を取られ損亡す。外聞しかるべからず。宵にいたづらに焼すつる薪灯をとりをき、寅の刻に起行水拝みし、身の形儀をととのへ、其日の用所妻子家来の者共に申し付け、さて六つ以前に出仕申べし。古語には子にふし、寅に起きよと候えども、それは人により候。すべて寅に起て得分あるべし。辰巳の刻迄臥ては、主君の出仕奉公もならず、又自分の用所もかく、何の謂かあらむ、日果むなしかるべし。
第四条
手水を使わぬさきに、厠厠より厩庭門外まで見巡り、先ず掃除すべき所をにあいの者にいい付け、手水を早く使うべし。水はありものなればとて、ただうがい捨てるべからず。家のうちなればとて、たかく声ばらひする事、人にはばからぬ体にて聞にくし、ひそかに使うべし。天にかがまり地にぬきあしすという事あり。
第五条
拝みをする事の行いなり。ただ心を直にやわらかに持ち、正直憲法にして上たるをば敬い、下たるをば憐れみ、あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持ち、仏意、冥慮にもかなうと見えたり。たとえ祈らずとも、この心持ちあらば、神明の加護之有るべし、祈るとも心曲がらば、天道に離され申さんと慎むべし。
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菊寿丸「父上は普段から家臣に言い伝えていることですね。」
早雲「うむ。日々の生活で当たり前ことを当たり前のように出来れば家中は平穏無事になると思うのだ。菊寿、この先、この家訓が出来ているか見守ってほしいのだ。」
菊寿「私が?」
早雲「そなたを僧にしたのは武士とは違う見方をするものを家中に欲しかったのだ。そなたには長く家中を見守ってほしい。これがそなたへの遺言だ。」
私はこの時、早雲から大変な遺言を頂いたものだと感じたのです。
この年、扇谷上杉朝良(おうぎがやつうえすぎともよし)が亡くなりました。
朝良「相模国はわしの領地だったのに…早雲に盗られるとは……。」
扇谷上杉家は早雲の孫・伊豆千代丸(いずちよまる)後の氏康(うじやす)によって滅ぼされることになるのです。
そして1519年、
早雲は最後の時がきました……。
つづく…
