私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。
(早雲は最初は伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)と名乗っています。)
1485年、盛時は小笠原政清(おがさわらまさきよ)殿の娘・陽子(ようこ)殿と結婚しました。
盛時「わしが陽子を守っていかねば!」
妻を守るという目的を盛時は得たのです。
この頃、山城国で国人と農民による一揆が起きました。
これを山城国一揆(やましろのくにいっき)といいます。
山城国は畠山義就(はたけやまよしなり)殿と畠山政長(はたけやままさなが)殿が領地を巡り長く争っていました。
この争いに山城国の国人や農民は疲弊しました。
「山城国から両畠山を追い出そう!」
「我らの国は我らで守ろう!」
国人や農民らが声を上げ、ついには集結し国中掟法(くにじゆうおきて)なるものを決め、両畠山氏に山城国から出て行くよう申し入れました。
「出ていかねば実力で排除致す!」
山城国の国人、農民らの姿勢に長い戦で疲弊していた両畠山氏はしかたがなく撤退しました。
盛時は幕府から派兵され、この撤退の様子を見ていたのです。
盛時「民が守護大名の権力から離れ、自ら立ち上がるとは…。」
同じように撤退の様子を見ていた武士らは皆思っていたのです。
「守護大名の力はもう落ちたのではないか?幕府の力も落ちたのでは?」
盛時の近くにいた武士がぽつりと言いました。
「我らも自らの国を持つことができる。」
盛時は思わす、その武士に声をかけました。
盛時「そんなことができるか?」
武士「あれを見よ!民と力を合わせれば可能だということだ。民を引っ張っていく指導者がいればな。」
盛時「民を引っ張っていく指導者?」
武士「そうだ。力を合わせなければ守護大名には勝てん。国を守ることもできん。」
山城国一揆を見て、この武士の言葉を聞き、盛時は一筋の光を見た気がしたようです。
盛時「わしは伊勢新九郎盛時と申す。そなたは?」
武士「わしは山中才四郎(やまなかさいしろう)です。」
山中才四郎さんは後に盛時さんに仕えることになるんだよ。
この山城国一揆で山城国は国人と農民らが支配する国になりましたが、それは長くは続かず国人と農民の対立、国人同士の対立を生み、ついには崩壊したのでした。
翌1486年、盛時の元に駿河国より報せが入りました。
これが盛時の人生を大きく動かしたのです…。
つづく…
次回をお楽しみに〜