今回は上杉憲実です。
憲実は結城合戦の後、隠遁し後を弟の上杉清方に託しました。
1441年に起きた「嘉吉の乱」の後、憲実は幕府から関東管領職に復帰するように命じられましたが応じませんでした。
憲実は自らの子らを出家させて還俗しないように命じました。
憲実はかつての主君・足利持氏を自害に追い込んだことを悔やんでいたんですね。
だから自身だけじゃなく自らの子らも出家させ政に関わらぬようにしたのです。
しかし!
後を託した清方が亡くなり、上杉氏の家督と関東管領職が空位になると、上杉氏の家宰・長尾景仲は憲実の長男を還俗させ上杉氏の当主と関東管領職に就けました。
この長男が上杉憲忠です。
これに憲実は激怒し憲忠を義絶しました。
その後、亡き足利持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方に就きます。
成氏は憲実を親の仇を思っており、憲実の子の憲忠や長尾景仲と対立しました。
幕府は憲実に現場復帰するように再び命じましたが…憲実はやはり応じませんでした。
憲実はその後、諸国遍歴の旅に出ました。京、九州まで赴きました。
憲実は政争に疲れたんですね。
1452年には大内氏を頼って山口・大寧寺に留まりました。
1454年、足利成氏は憲実の長男・憲忠を暗殺し、これが享徳の乱の始まりでした。
憲忠が暗殺されたことを山口にいた憲実はどう感じていたのでしょう…。
その後、憲実は大寧寺で過ごし、1466年亡くなりました。
関東では「享徳の乱」以降、戦乱となり上杉氏は権力を失っていきました。


