1326年、北条高時は病の為、執権職を辞して出家しました。
後継ぎを巡り争いが起きます。
高時の実子・邦時を推す長崎氏と高時の弟・泰家を推す安達氏が対立しました。
これを嘉暦の騒動といいます。
邦時は高時の庶子で母は得宗被官の娘、安達氏は高時の正室に男子が生まれるまで泰家を推していました。
高時の正室は安達氏の娘です。
相変わらず、お互いの勢力の争いに明け暮れる北条氏。
一旦は長崎派の金沢流北条氏の金沢貞顕が中継ぎとして執権職に就きました。
しかし貞顕は安達派の報復を恐れ、就任から1ヶ月で辞職します。
「中継ぎとはいえ、今、執権職に就くと安達に殺されるぞ」
こんな噂が流れ誰もなりながらない中、赤橋流北条氏の赤橋守時が執権となり、この騒動は収拾しました。
「私が幕府を立て直すぞ」
と守時は張り切りました。
守時は有力御家人・足利氏と結ぶ為、自らの妹・登子を足利氏に嫁がせます。
その相手が足利高氏でした。
この頃、高氏には2人の側室がいました。
1人は一夜限りの関係だった越前局で男子が生まれ、それが後の足利直冬です。
もう1人は足利一門・加古基氏の娘で、こちらにも竹若丸という男子が生まれています。
1329年、登子は正室として足利高氏に嫁ぎました。
しかし、守時の思いは叶わず、執権はお飾り状態で幕府の実権は得宗家にありました。
足利貞氏は高氏が北条氏の娘を正室にし北条氏と繋がりをつけたことで足利氏の家督を高氏に継がせることを決心します。
そんな中、京では後醍醐天皇がまた動き出しました…
つづく…
