争う一族 〜最終回・武士政権〜 | 歴史を感じよう

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源義経は鎌倉の圧力に屈した藤原泰衡に襲撃され自害しました。

1189年6月義経の首は鎌倉に届きました。

しかし源頼朝は義経を匿ったことを重大な犯罪行為として奥州攻めを強行しました。

この時、頼朝は東国のみならず全国各地の武士を動員しました。その数、28万騎!

頼朝自身が陣頭指揮を取って大軍で攻め込み、奥州藤原氏は崩壊しました。

頼朝は全国の兵を司る立場になったのです。

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1190年11月頼朝は千人余騎を率いて上洛します。

頼朝は後白河院に拝謁し、余人を交えず二人だけで数回会いました。

頼朝は希望していた征夷大将軍には任じられませんでしたが、権大納言・右近衛大将に任じらました。

しかし頼朝は12月に両官を辞任します。

鎌倉に戻った頼朝は御家人たちへの所領安堵の証文を頼朝一個人ではなく、役所機構を通じた公式文書に変えました。

頼朝が仕切るのではなく、組織が仕切る形にしたのです。

そして1192年3月後白河院が崩御。

6月に頼朝は征夷大将軍に任じらました。


頼朝はそれまで同族以外の結束を知らない武士団を御家人組織にまとめ上げ、幕府を作った偉大な指導者になりました。

頼朝が源氏一族と争ったのは、かつての一族の争いとは違い、武士政権を作ることを目的とし、その過程での争いでした。

頼朝が亡くなった後、河内源氏の嫡流三代で滅びますが、庶流である足利氏が後に政権を取りました。

武士政権は徳川慶喜の大政奉還まで約680年続きました。

争ってきた一族は頼朝により武士政権を完成させたのです。

【完】