しかし和睦し義仲は子の義高を頼朝の娘・大姫の婿に出しました。ようは人質です。
義仲は父・義賢を頼朝の兄・義平に殺害されており心中は頼朝に負けたくないと思っていたことでしょう。
この頃、頼朝は鎌倉に居て東国の経営に力を注いでいました。
1181年2月に平家は平清盛が熱病で亡くなり大事な指導者を失います。
1183年4月に「倶利伽羅峠の戦い」で平家軍を破った義仲軍は上洛します。
しかし京の治安維持をできず、市中で略奪、狼藉を行いました。
後白河院は鎌倉の頼朝に上洛するよう使者を送ります。
頼朝は「鎌倉の背後には奥州藤原氏や佐竹氏の脅威があり動けない」と返答します。
さらに「内乱で東海、東山、北陸道では荘園や公領の年貢租税が滞っているので、それを正常にする役目を与えてほしい」と願い出ました。
後白河院は義仲に配慮し北陸道を除く内容を認め宣旨を頼朝に発します。
この宣旨を「寿永二年十月宣旨」といいます。
これにより頼朝は政府より東国支配を認められたということになります。
さらに「平治の乱」での流刑者の身分から脱し元の従五位下の位に復しました。
頼朝は着実に地盤を固め、政治的に戦っています。
そして頼朝は軍を動かします。
自らの代わりに弟・範頼と義経に軍を付けて上洛させます。
つづく…

