争う一族 〜開戦直前〜 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

1155年、源義朝が長男・義平に弟・義賢を討たせた大蔵合戦、朝廷からのおとがめはなかったのでしょうか?

大蔵合戦は朝廷では問題にされませんでした。

実は大蔵合戦の起きた武蔵国の国守は「藤原信頼」で黙認しました。
信頼と義朝、後に行動を共にしますが、この時から関係があったようですね。

義賢が討たれ、もう一人の弟・頼賢が仇、つまり義平を討つべく、信濃国に入りました。
それを義朝が鳥羽院の院宣を掲げ追いかけ、合戦寸前までなりましたが、合戦は回避されました。

為義と義朝の関係は修復不可能になっています。


争っているのは河内源氏だけではありませんでした。
天皇家では近衛天皇が崩御され後継ぎを誰にするかで揺れに揺れました。
結果、雅仁親王がその子・守仁親王までの中継ぎとして即位しました。
この雅仁親王が「後白河天皇」です。
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後白河天皇

納得がいかないのが崇徳院でした。崇徳院の子・重仁親王も後継ぎ候補だったのです。

藤原摂関家では相変わらず関白・忠通と忠実、頼長が対立しています。


ここでそれぞれの争いが真っ二つに分かれる図式ができました。

後白河天皇・藤原忠通・源義朝

                VS

崇徳院・藤原忠実、頼長・源為義


そして開戦を抑える存在であった鳥羽院が崩御します。

もはや開戦直前でした。ここでその動向が注目されたのが伊勢平氏「平清盛」です。




つづく…