義綱は「後三年の役」には参戦せず京に留まりました。
「朝廷のお許しのない戦に行っても得るものはない。義光も馬鹿だな~」と義綱は思ったでしょう。
後三年の役は終わり、義家は恩賞もなく陸奥守を解任され帰京します。
1091年正月、義綱は関白・藤原師実が節会(宮中行事)に参内する際の行列の前駆を務めました。
義綱はこの後も藤原摂関家の前駆や警備に付きます。
義家にはそのような活動はありません。
1091年6月、京を震撼させる事件がおきます。
義家と義綱が互いに兵を集め、一触即発の事態を迎えました。原因は双方の郎等が河内の所領を巡り争い、それが飛び火したのです。
この時代の戦は地方で起こっていましたがこの事件は京で起きる危機でした。
結局、衝突は起きず未遂で終わりました。
事件後、義家には処罰が与えられました。
・義家に対して随兵の入京禁止令
・義家への土地の寄進禁止
「なぜ私だけ…」、失意の義家。
この事件は郎等の所領争いが原因ではなく、河内源氏の嫡流争いも背後にはあったのでしょう。
さらに義綱の台頭は続きます。しかし…
つづく…

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