この影響なのか純友は日振島に船を返します。
比叡山共謀説が事実なら、純友としてはショック以上のものだったでしょう。
その後、純友は暴れまくります。
8月 伊予国、讃岐国を襲撃し放火。備前国、備後国の兵船100余を焼く。長門国を襲撃、官物を略奪。
11月 周防国を襲撃。
12月 土佐国幡多郡を襲撃。
しかし、朝廷は将門を討ったことにより、西国に兵力を集中させることが可能になりました。
さらに純友にとって痛手だったのは純友軍の幹部・藤原恒利が朝廷に寝返ったことです。
941年2月 朝廷軍は日振島を攻め、純友軍は破れました。純友らは西に逃げます。
攻撃目標を九州・太宰府に置き、5月太宰府を襲撃、建物を焼き払い略奪の限りを尽くします。
5月20日小野好古ら朝廷軍と純友軍が博多湾で激突。
朝廷軍は純友軍の海賊船団を次々と打ち、800余の船を捕獲しました。
純友軍は壊滅的な打撃を受け、大敗しました。
つづく…

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