悲運の上皇② | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

崇徳上皇は鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第一皇子として生まれた。
しかし父・鳥羽天皇には疎んじられた。

何故か?一説には白河法皇と璋子の密通で生まれた子だともあります。
白河法皇は鳥羽天皇の祖父にあたり、鳥羽天皇は崇徳上皇を「叔父子」と忌み嫌ったとあります。

後の出来事などから推測すると、密通の子かどうかはわからないけど、鳥羽天皇が忌み嫌っていたのは確かだと考えます。

父から嫌われていた、この時点で悲運は始まっていますね。

鳥羽天皇が譲位し崇徳上皇は幼くして天皇になりました。
(上皇とは太上天皇の略で天皇の位を後継者に譲ったあとに贈られる尊号。法皇とは出家した上皇のこと。ちなみに上皇または法皇のことを院とも言います。)
当時は院政(院政とは上皇または法皇が実権を持ち政治を行うこと)の時代で天皇になっても実権はありませんでした。

白河法皇が崩御した後、実権は鳥羽上皇に移り、崇徳天皇はますます蚊帳の外の状態でした。

なんだか天皇だ上皇だ法皇だとややこしいですね~。

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鳥羽院