20世紀初頭はシャンパンにとって再びの生みの苦しみの時でした。第一次世界大戦を前にしてブドウ栽培者とメゾンの関係が悪化しました。
 第17回は
「ブドウ栽培者とメゾンの対立についてです。
チャレンジしてみて下さい。


ℚ1.1911年1月には栽培者たちがメゾンを襲うという暴動が起こりました。その原因となった出来事を選んで下さい。(幾つでも)
①フィロケセラが畑を蝕んでブドウ栽培者は苦境に陥っていた。
②天候不良でブドウの収穫が毎年不良でブドウ栽培者は苦境に陥っていた。
③メゾンがブドウ買取価格を結託して固定していた。
④メゾンがシャンパーニュ地方以外の地域のブドウやワインを製造に使うようになっていた。


ℚ2.1911年にはマルヌ県とオーブ県は対立しました。
オーブが大規模なデモを起こし、マルヌが1万人もの大群衆による暴動を起こしました。その原因は何でしょうか?
①両県のブドウ買取価格に差があった。
②両県のブドウ栽培者の宗派が違った。

③オーブ県がシャンパーニュ地方に属するかが不明であった。


ℚ3.レコルタン・マニピュランとは次のうちどれでしょうか?
①自家栽培のブドウを使い生産協同組合でシャンパーニュを製造する栽培業者

②自家栽培のブドウで自家製シャンパーニュを製造する栽培業者
③栽培業者のブドウを買取り製造する生産者


如何でしょうか?

答えは、

ℚ1:①~④の全て
ℚ2:③オーブ県がシャンパーニュ地方に属するかが不明であった。

ℚ3:②自家栽培のブドウで自家製シャンパーニュを製造する栽培業者


【解説】
 1911年1月には栽培者たちがメゾンを襲うという暴動が起こり、半年余り騒乱状態が続きました。鉄道輸送によってメゾンはシャパーニュ地方以外の安いブドウの入手が容易になり、他地域のブドウやワインを製造に使い始めました。1890年には幾つかのメゾンがブドウ買取価格を結託して固定していたことがわかりブドウ栽培者たちの不信感を募らせました。悪いことに、1890年から1907年までのブドウの収穫は毎年みじめな状況でもあり、さらにフィロケセラが畑を蝕び始めた状況でした。

 

 シャンパーニュは主として2つの栽培地からなっています。中心的なマルヌ県(3.7万エーカー)とブルゴーニュに近いオーブ県(0.5万エーカー)です。しかし、当時シャンパーニュ地方がどこかは規定されておらず、オーブ県がシャンパーニュ地方に入り、シャンパンと称することができるかどうかはオーブ県にとって死活問題でした。このシャンパーニュの境界問題について、マール県とオーブ県は対立しました。

 

 自家栽培のブドウを使い生産協同組合でシャンパーニュを製造する栽培業者は「レコルタン・コーペ ラトゥール」、自家栽培のブドウで自家製シャンパーニュを製造する栽培業者は「レコルタン・マニピュラン」、栽培業者のブドウを買取り製造する生産者は「ネゴシアン」と言います。




ご興味のある方は、「ブドウ栽培農家の暴動・・・シャンパンのそうだったのか!⑯」こちらをご覧ください。
詳しく解説しています。