この頃“女子会”と銘打ち、“女子”と呼べる年齢がうやむやになってきた。

俺も“男子”にするか。いや、気色悪いな。40だし。



今日は我がジムの女子(?)たちが、試合を迎えた。

一人は今日がラストマッチの30代半ば女子。春には田舎に嫁ぐそう。

二人目はコンスタントに試合をこなす、童顔の30歳。既婚。

そして40オーバーのお母さん。ママチャリに乗っててもバブル世代のノリがある。


試合前のアップでは、練習の成果か、いい動きと技を見せていた3女子だが、

いずれも技術に劣る選手に、いいところなく負けた。

我がジムは技術をしっかりと教えるのだが、1分×2R・防具ありのルールでは

ひたすら前に出た方が優勢勝ちになる。

私はまぁ、3女子ともによくやったよ、くらいに思っていた。

本音を言うと、彼女達がキックをするわけが、理解できないからだ。



試合を終えた3人は、悔し涙を浮かべていた。

気丈に振る舞おうとしても、こらえきれず涙が浮かぶ。

そして3女子が集まると、涙が涙を呼び、とめどもない様相になる。

応援に来ていた女子が肩を抱くのが、なんと頼もしいことか。

我々男子は何もできず、せめて視線を反らしたまでだった。



なぜキックなんかやるの、なんてどうでもいいよ。

ただ好きだからだ。

そこに男女も年齢も関係ない。

俺だってそうだ。



おおいに“女子”であり、“男子”なんだ。



“女子会”を終えて、3人は帰って行った。

さっきまで泣いてたおっかさんは、

「んでさぁ~、」なんてバブル期のイントネーションで、

輪の中できゃいきゃいはしゃいでいた。






































バイクの免許取得のため、教習所に通っている。

周囲が身を固めた影響か、週末に外出する機会も減ったが、

暖かくなったら「風を切りに」行こうと思う。 かっこいいなぁ。



教習所には若者が多いが、ギャルもギャル男も接してみると予想外に清らかだ。

自分を含め、生きてきた数だけ確実に心が澱んでいる。

真面目に生きてるつもりでも、そんなもんなのだろう。



教官達は、決められた時間に、決められた行程をこなす。

チャイムの響きとともに生徒と対面し、てきぱきと進める。

日がな一日働いた男たちは、いつもの夜を過ごし、明日もここで誰かを教える。

過去を・今を・未来もなく、ただ笑顔で指導に励んでいる。




私は広告業界で働いている。

今は夏に実施する若者向けの音楽フェスの企画中だ。

音楽好きとしては好きなアーティストが見れればいいのだが、全てはビジネスあっての事。

スポンサーのメリットを第一に、集客力のあるアーティストを集める力が実施を左右する。

携わる人の幾ばくかがそれに疑問を持ちながらも、旬の人気者がいくつものCMに出て、

内容のない歌と笑みを提供する。

屈託の無い若者たちが、それを見て動かされている。



人気者を招へいする力は、圧倒的に大手の看板が強い。

メディア・広告会社・音楽会社は常に繋がっている。

そこにいる者たちは、自らが世の中を動かしている錯覚におちいる。

歌も唄えなければ、秀でた才能もなくとも。


需要の高いアーティスト達は、ある時それに疑念を抱く。

自らのアイデンティティに共鳴する人々の声は聞きたいが、

誰かの意図で動くことは拒む。感性の高い者ならなおさらだ。


それに拒めば、次が出てくる、

その繰り返しでこの世界は成り立っている。

間に入る者に痛みはない。

錯覚による優越感が萎える事もない。そして、

それに気づくことも無い。

その繰り返し。





夕方の教習所の空にチャイムが鳴る。「遠き山に日は落ちて」。

いつものように教官達は事務所に戻る。若者達に別れをつげ。



どこで何をしても、毎日は繰り返し。

ならば人を見下すより、課せられた事を楽しむ事に、価値を見出したい。




送迎バスで、若者の携帯の着メロが鳴った。

あのアーティストの曲だった。















私事ながら昨日、キックの試合に出場した。

十数年前、それなりに悩んでこの世界を去って以来、

ここのところ、アマとしてまた頑張っている。

40の独身男の、ささやかな楽しみだ。



私の現所属ジムは下町にあり、主婦や子供、中年からプロ選手まで

幅広く集まり、汗を流している。

上手に世の中を渡っていける者もいれば、そうでない者もいて、

もしかすると、後者に属する者が多いのかもしれない。


“居場所”


そんな言葉が似合うジムに、今日も夕暮れから人が集ってくる。

これまで私が居た、いくつかのジムと同じように。




今回の注目カードは、20年程前、“最強の高校生”として

当時のキック界では珍しく話題となり、

この世界ではカリスマとされながら、盛りを過ぎ、

近年復帰したものの、憐れみを拭いきれぬ“元カリスマ”に、

我がジムのホープが挑む“新旧対決”だった。


“獣のように挑戦者は、襲いかかる若い力で”


試合は一方的に若者が主導権をとり、

観衆の興味は“元カリスマ”がどこまで粘るか、どこで朽ち果てるのか。

そして、まさかの逆転はあるのか。





前日の計量は、選手一同が集って行われた。

私がジムの仲間と会場に着くと、既に多くの選手が順番を待っていた。


その中に“元カリスマ”はいた。

よく面影の似た、息子と二人で。


彼は計量を終えると、息子がポットから差し出す飲み物に口をつけた。

湯気のたつカップを持ち、向かいあわせで座る様は猿山の親子サルのようで、

圧倒的な生命力の周囲の若者達とは、別の時間を漂うようにも見えた。





まさかの逆転劇は無かった。

しかし最後まで、それがあり得るだけの“危うさ”を持っていた。

最期まで“ギラギラ”していた。




会場では“旧カリスマ”のグッズを売っていた。

新旧対決が終わった後も、僅かばかりの往年のファンが、それを買い求めている。

売り子に徹するのは、昨日の計量会場にいた息子だった。

父が敗れる様を目の当たりにしても、声を張り客寄せに励む彼は、笑顔にすら見えた。


世間一般の親子像とは、一風変わった二人なのだろう。




皆に愛される人もいれば、少し不器用な人もいる。




父と子は家に帰り、何を話すだろう。

今日一日、“旧カリスマ”と、その姿を見た息子は、寝床で何を思うだろう。





私は独り身の旧カリスマより一つ年長。

カリスマになった事もなければ、その背中を見続ける子も無し。

ただ、これからカリスマになるものと、信じて疑った事がない。


いわゆる“馬・鹿”。