内田樹さんの『街場の読書論』を読んだ。
失礼を承知でいうが,
内田さんの書く本は別に独創的な内容を持つ本ではない。
むしろみんなが納得することを代弁してくれる
「おじさんのお説教」にも似た愉悦的な本である。
ただし,その文章の提示の仕方が他の多くの文筆家とは異なっている。
どう異なっているかはこの本に詳しく書いてあるが,
リーダビリティ,つまり読者への配慮という点だ。
内田さんは今でこそいろいろな分野のことを自由に書いてらっしゃるが,
そもそもレヴィナスの哲学を専門とする研究者だ。
レヴィナスといえば20世紀の哲学者の中でも難解な部類に入る哲学者で,
使っている語彙が難しいなとか,
複雑な計算をしているなという難解さではなくて,
そもそも何について話しているかが理解できないという種類の難解さだ。
まさに別の次元で話す哲学者である。
そんな哲学者について書こうとする者,
あるいはそんな哲学者に倣って書こうとする者は,
大抵,読者に配慮など払わない,
むしろ,配慮など払う余地がない。
ましてブログというフォーマットに収まる文章は書けない。
(私自身がそうだ。)
ところが,内田さんにはそれができる。
それは実は驚異的なことなのだと思う。
現代における文学の存在意義とは何か,
という問いが文学の外部から出された時,
通常の文学者は,
優れて文学的な回答を提出するだろう,
というか,実際に提出してきた。
ある意味で文学への疑義に対して文学をもって回答することで,
現代文学は命脈を保ってきた,というより保っていると思っている。
実際にそれは文学的に「正しそうな」回答だからだ。
しかしこれでは形式的に言って,
文学の外部からの問いには十分に答えられていない。
それは「日本語話せますか」と尋ねる英語が話せない人に,
正しい文法の英語で訳の分からない返事をしているようなものだ。
その点で学問としての文学の終焉は,
すでに始まってしまっているのかもしれない。
学問としての文学には,
残念ながら真の独創というものはなくて,
どうしても過去の文学の蓄積を
土台にしなくてはいけないという事情がある。
性質上ある文章を読んでいないと学問が成立しないという点で,
自然科学や芸術とは決定的に異なる。
内田さんの仕事ももちろん過去の土台の上になされているが,
内田さんが物を書くときには一旦土台から降りて,
相手といっしょに土台の上の建造物を見上げるような,
そうした読者への配慮を決して忘れることがない。
内田さんが書いている内容には賛否両論があるかもしれない。
「読める」文章,議論に対して常に開かれている文章というのは,
読んでいて心地よいものだ。
また読みづらい文章になってしまいましたが,
誰かに読んでもらうためじゃないにしても,
「読みやすく書くことは大事だ」ということが
分かったという話でした。
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