このブログは「中年おじさんの散策」3の継続版です
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養玉院如来寺「大井のおおぼとけ」として親しまれる五智如来坐像 03-3771-4816
如来寺の歴史
如来寺は、 帰命山如来寺大日院といい、寛永13年(163の3月19 日に木食但唱(1579 一1641)により 弟 子達と共に造った五智如来像を安置して開かれた。 建立地は、泉岳寺に近い高輪(港区高輪)の、東海道沿いで人の 往来が多くにぎやかな地で、 海に面した好立地であった。像高が一丈(約 3.3 メートル)もある五智如来像が五躯並ぶ姿は、江戸の人々から注目を集め、「芝大仏」 と呼ばれて親しまれた。 その様子は「江戸名所記」や「江戸雀」な どさまざまな案内記や浮世絵に描かれており、名所として知られていた。 万治年間(1658 一1661) 頃の絵図には如来堂、仁王門、鐘楼が描かれており、 また、「江戸惣鹿子名所大全」が 出版された元禄3 年(1690)の頃は五智如来像のほか観音菩薩や閣魔王像の名所でもあったことが伝えられる。
如来 寺は享保10年(1725) と延享2年(1745)におこった火事により、但唱らの造った五智如来像をはじめ石造仁 王像などが焼失する大きな被害に遭った。しかしその都度再建され、「江戸名所図会」の描かれた天保7 年(1836) 頃にも大きな如来堂をはじめ境内には鐘楼、地蔵堂、大日堂、天神社などが建ち並び、にぎわいをみせていた。 創建以来、明治に入って西大井に移転するまでは寺地を移動することはなかった。
帰命山 養玉院如来寺は、明治期に現在地に移転していた如来寺に、上野にあった養玉院が大正期に移転合併した天台宗の寺院です。朱塗りの「瑞應殿」には大井の大仏(おおぼとけ)といわれる木造五智如来坐像が鎮座しています。
如来寺は寛永年間に木喰但唱が芝高輪に創建したお寺で、但唱によって造立された3メートル超の五智如来は高輪の大仏と呼ばれ、江戸有数の名作として評判となりました。薬師如来を除いて火災で焼失し、他の四体は延享3年(1746)頃の再興です。現在は大井の大仏として親しまれています。春の桜、秋の紅葉とともに四季折々の美しい自然が楽しめる境内が評判で、年中行事には多くの参詣者が訪れます。
所蔵する東京都有形文化財『紙本着色仏涅槃図』は、毎年2月15日の涅槃会法要時だけの限定公開です。8月13日の「千燈供養」では境内千個の堤灯に次々と火がともされ、幽玄な情趣が味わえます。東海七福神の布袋尊をお祀りしており、お正月は初詣、七福神めぐりの人々で賑わいます。
住所〒140-0015 東京都品川区西大井5-22-25
交通アクセス
JR横須賀線 西大井駅 徒歩10分
都営浅草線 馬込駅 徒歩10分

20181003 横浜 見学 大佛
東京都品川区西大井
帰命山養玉院如来寺
如来寺は、 帰命山如来寺大日院といい、寛永13年(163の3月19 日に木食但唱(1579 一1641)により 弟 子達と共に造った五智如来像を安置して開かれた。 建立地は、泉岳寺に近い高輪(港区高輪)の、東海道沿いで人の 往来が多くにぎやかな地で、 海に面した好立地であった。
養玉院如来寺は、昭和17年(1942) に宗教法人法の制定により、公称名を「養玉院」とした。その後、太平洋戦争が勃発し、東京は空襲に遭った。養玉院も庫裡や所化寮 (旧如来寺庫裡)焼夷弾を受けて全焼、境内の外柵が 外されて避難用の防空壕が掘り起こされるなどし、とても悲惨な状況であったという。 hpより











