神楽坂(かぐらざか)は、東京都新宿区で牛込地域南西部に位置する。早稲田通りにおける大久保通り交差点から外堀通り交差点までの坂である。坂の周辺の地名でもあり、神楽坂一丁目から六丁目がある。全域住居表示未実施。#町名の変遷を参照。江戸時代には、外堀に設置されていた牛込門に通じる交通の要衝だった[4]。
なお大久保通りとの交差点が「坂上」、外堀通りとの交差点が「坂下」[5]となる。またこの地名は東京メトロ東西線神楽坂駅や都営大江戸線牛込神楽坂駅など駅名にも使われている。
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名称の由来[編集]
「神楽坂」の名称の由来について、『江戸名所図会 巻之四』(天保7年)によれば、この坂の右側に高田穴八幡の旅所があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したからとも、「若宮八幡の社」の神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれる[4]。 また、「改撰江戸志」 (原本は残っておらず成立年代は不明だが文政以前にすでに存在が確認されている) には、津久戸明神が元和の頃に牛込の地に移転した時、神輿が重くてこの坂を上ることができなかったが、神楽を奏すると、容易に上ることが出来たため、この時より「神楽坂」の名が付いたと記されている。
特徴[編集]
神楽坂は、全国的にも稀な逆転式一方通行となっており、自動車などの進行方向が午前と午後で逆転する。午前中は「坂上→坂下」(早稲田側から飯田橋側へ)であるが、午後は「坂上←坂下」となり、通行する際は注意が必要である。逆転式一方通行となった背景に、その昔田中角栄が目白台の自宅から永田町に出勤し(午前)帰宅する際(午後)に便を図ったからともいわれるが、これはタクシーの運転手によって広まった都市伝説である[6]。実際の理由としては、急激な交通量の増加で規制を求める声が上がり、その最中に通り沿いの陶器店に車が突っ込む交通事故が発生、これが元で規制が行われたものの周辺で大渋滞が発生したことから、1956年に都心から西側の住宅地に向けた一方通行となり、1958年に現在の逆転式一方通行になった[7]。




20181113 東京北 商店街
東京都新宿区神楽坂
神楽坂界隈
「神楽坂」の名称の由来について、「江戸名所図会 巻之四」(天保7年)によれば、この坂の右側に高田穴八幡の旅所があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したからとも、「若宮八幡の社」の神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれる。 また、「改撰江戸志」 (原本は残っておらず成立年代は不明だが文政以前にすでに存在が確認されている) には、津久戸明神が元和の頃に牛込の地に移転した時、神輿が重くてこの坂を上ることができなかったが、神楽を奏すると、容易に上ることが出来たため、この時より「神楽坂」の名が付いたと記されている。 神楽坂は、全国的にも稀な逆転式一方通行となっており、自動車などの進行方向が午前と午後で逆転する。午前中は「坂上→坂下」(早稲田側から飯田橋側へ)であるが、午後は「坂上←坂下」となり、通行する際は注意が必要である。逆転式一方通行となった背景に、その昔田中角栄が目白台の自宅から永田町に出勤し(午前)帰宅する際(午後)に便を図ったからともいわれるが、これはタクシーの運転手によって広まった都市伝説である。





20181113 東京北 見学
東京都新宿区赤城元町
近代科学資料館
二村記念館 ①
1991年(平成3年)11月、東京理科大学の創立110年を記念して建設。建物の外観は、1906年(明治39年)に神楽坂に建設された東京物理学校(東京理大の前身)の木造2階建校舎を復元したもの。
二村冨久(二村化学工業創業者、1941年(昭和16年)12月東京物理学校理化学部卒業)が建設費を寄贈した。副称は、彼に因む。
展示物は、東京物理学校(東京理科大学の前身)から引き継がれ、保存された資料や寄贈資料である。
江戸時代の和算書から始まり、多くの算木、そろばん、機械式計算器、電気式計算器、電子式卓上計算器(電卓)、そして、電子計算機にいたる『計算機の歴史』を中心とした展示を行っている。
また、真空管や黎明期のパーソナルコンピュータなども展示されている。









20181113 東京北
東京都新宿区筑土八幡町
神楽坂 和らく
筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ)は、東京都新宿区筑土八幡町にある神社。江戸時代までは筑土八幡宮と呼ばれていた。
当神社は嵯峨天皇の時代(809年 - 823年)に、付近に住んでいた信仰心の厚かった老人の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのが起源であるといわれている。その後、円仁(慈覚大師)が東国へ来た際に祠を立て(850年前後)、伝教大師(最澄)の作と言われた阿弥陀如来像をそこに安置したという。その後、文明年間(1469年 - 1487年)に当地を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、この地の鎮守とした。上杉朝興の屋敷付近にあったという説もある。
元和2年(1616年)にそれまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦災で全焼。明神社の方は千代田区九段北に移転し、築土神社として現在に至る。八幡神社の方は現在でも当地に鎮座している。
第27回(59)水道橋から後楽園界隈・江戸川橋(神楽坂界隈)を楽しむ旅 「体験・建築・史跡散策とグルメランチ(老舗)」PART10 熊谷カルチャー
和らく 季節のランチ 第50回水道橋から後楽園界隈・江戸川橋(神楽坂界隈)を楽しむ旅 古河・上尾・小山カルチャーセンター「お江戸巡り⑰」





久しぶりに神楽坂方面の散策。水道橋から出発したが、神楽坂方面でのランチとなる。今回利用したのは「和樂(和らく)」、神楽坂近くの路地裏の店。木造家屋を改修した趣のある店舗。だいぶ前に来たことがあるが、やはり今回も迷ってしまった、電話で確認しながらどうにか到着できた。
人数が12名程度なので、個室を準備してくれていた。多少天気が悪かったので、参加者も一安心。暖かい空間にのんびりする。テーブルにはある程度の物(鍋)が準備されていた。今日は「鱈鍋、味噌仕立て」となっていた。火をつければ良い状態。一人づつなのでありがたい。
お盆(トレー)に3種ほどの料理とご飯が入れられてきた。小鉢は、「ふぐの揚げ物(茄子・シシトウ)」・「サラダ」・「お造り(刺身)」となっていた。まず目についたのが、ご飯。非常にきれいに炊かれたものと、新鮮でおいしそうな香の物がついていた。
①揚げ物は、三個程度だが揚げたて、アンがかかっており食べやすいものとなっていた。野菜もきれいに揚げられ、彩りも良くなっていた。優しい味だった。②サラダはフレンチドレッシングのようなもので仕上げられていた。③刺身は、鰹。つけ込まれたような物となっていた。そのままで十分に食べることができた。おいしい物だった。
そのうちに鍋も煮込まれ、食べ頃となっていた。ちょうど良い味付けになっていたので、ご飯とも良く合う。非常においしい。ご飯の美味しさも増すことになっていた。後は気が向くまま食べれば終了。私はおいしいご飯をおかわりさせていただいた。






