皆様お疲れ様です。



長男の一周忌法要や祥月命日を終えた私。



また1つの節目を終えて

また来年かぁー

なんて思ってホッとしましたが



実は祥月命日の次の日

1月11日は

義父の7回忌法要だったんです。



長男の祥月命日は10日

そして義父の祥月命日は12日という



まさかの2日違い。



なので1月上旬の法要は

年末年始を挟むのもあって

なんともスケジュール調整が

やりづらいという事を思い知りました(笑)



お弁当の配達なども

年末年始は電話が繋がらないので

思っているよりも日にちが無いなーと

感じました。



おかげさまでなんとかどちらも

無事に終える事が出来たんですけど

今回はそんな義父の法要でのお話です。



長男と義父が眠るお寺は

もちろん違うのですが

宗派は同じ曹洞宗。



もちろんご住職も別の人、



なので同じ宗派でも

進め方など違う部分って

結構あるんだなと思いました。



一番違いを感じたのは



「法話」



私が先祖代々お世話になっている

お寺のご住職は

法話が全くありません。



淡々と進み

淡々と終わります。



これはこれで

何のしがらみもなく良いと思います。



それに対して

義父のお寺のご住職は

法話があります。



私はご住職からの法話など

ほとんど聞いた事が無いので

ひょっとしたら

法話のテンプレみたいな話かもしれませんが

私には少し新鮮に感じました。



前フリが長くなりましたが

今回はその「法話」のお話です。



どんなお話だったか要約しますと



今日という日にまた皆さんがお元気に集まって

法要をされるという事は

故人様にとってとても供養になります。

(一人減っておりますが……タラー)



この今日を迎えるまで

色々な事がおありだったとは思いますが

ここにまた集まれた事は本当は奇跡なのです。



「ありがとう」「ありがたい」という言葉は

「有り難い」という事です。



そしてこの「有り難い」の反対語は

「当たり前」です。



当たり前というのは有り難いの

連続によって作られています。



毎日目が覚めて、ご飯を食べ

1日を無事に過ごし、また眠りにつく

そして次の朝を迎える



これは「当たり前」の事のように思えますが

有り難い奇跡の連続によって

当たり前に感じているだけなのです。



いずれは私(ご住職)も含め皆さんも

この世を去る時が来ます。



だから皆さん

1日1日を大切に過ごして

また次の法要にお会いしましょう。



というような内容でした。





まあ、一見良くあるお話かなとは思います。




でも、本当にそうだと思います。



家族全員が元気で

当たり前のように生きる事が

実は奇跡だという事。



悪い事なんか

そう起きるものではない



幸せな時は皆そう思います。




それはそうだと思うんです。



でも確実に「そう」でない時もあって



一定数悪い事が起きるわけです。



私はその一定数の中に入ってしまった



そんな事を思います。



だからこそ

ほんの小さな幸せが

とても愛おしく

有り難い事だと気付く事が出来た。



1日1日を噛み締めて

生きる事は出来ている。



無駄な時間は

出来るだけ送りたくない



そんなふうに思いますが



でもやっぱり一番の幸せは



何も考えないで幸せを享受する事

当たり前を当たり前と思う事



これって、とても幸せな事だったんだなと



今になって思っても遅いんだけどね…





あの頃に戻りたい





そしてまさかご住職も

私達に逆縁が起きているなんて

知らないで話してるんだろうな。




1日1日の大切さ

よーーく知ってますよタラー



どれだけ後悔したか

もう分かりませんからね。






最後までお読みくださり

ありがとうございます。










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