河合香織『セックスボランティア』 | What's Entertainment ?

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河合香織のルポライト『セックスボランティア』を読破。本書は、2004年7月に新潮社から単行本が刊行され、 2006年10月に新潮文庫化されている。

35mmの夢、12inchの楽園


内容が内容だけに、彼女の略歴を記しておこう。

35mmの夢、12inchの楽園

1974(昭和49)年、岐阜県生まれ。ノンフィクションライター。神戸市外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。二作目の著書『誘拐逃避行 少女沖縄「連れ去り」事件』(文庫版改題『帰りたくない 少女沖縄連れ去り事件』も、実に優れたノンフィクションである。

書は、彼女の初めての著作である。
実に刺激的なタイトルだが、「セックスボランティアとは、「無償援助交際」というような意味ではない。この作品は、障害者の「性」について掘り下げたノンフィクションである。
我が国でもバリアフリーが提唱されて久しいが、その実態は依然として「障害者」に対する偏見が根強く残っている。

障害者に対して、差別とまでは言わないにせよ、我々は、彼らから目を逸らして、正面から向き合うことを避けてはいないか。あるいは、必要以上に哀れんだり、同情したりしてはいないか。誤解を恐れずに言うと、そもそも障害者を特別視して、彼らが同じ人間であるという当たり前の事実を、我々は忘れていないか。

僕は仕事の関係で、数年にわたり身体障害者と接する機会があった。そのうちの一人で重度の身体障害者(内臓疾患及び下肢障害)とは、友人として現在でも交流を続けている。
日常的とまでは言わないが、少なくとも僕にとって、身体障害者と関わることは、決して「特別なこと」ではない。

僕が彼らと接する時、心に留めていたのは身体障害者であるという事実から目を逸らさずに、その上で「彼らの体のことを心配はしても、同情はしない」というスタンスである。
彼らは、決して自分を哀れんで欲しい訳ではない。そして、日々自分の障害と向き合いつつ、生きているのである。


それでは、本書の内容について触れよう。

著者は、さまざまな障害者や関係者、ボランティア、風俗業者への取材を通じて、障害者の性についての現状の一端を把握し、あるべき姿を模索している。
そして、セックス先進国であるオランダまで足を運んで、最先端の現状をも取材している。

僕が読んだのは、文庫版の方で、それには本書が単行本として発行された後の、後日談も加筆されている。


知的障害者であれ身体障害者であれ、当然のことながら性欲は存在する。本書の中でも、「性は生きる根本だと思う」「性とは自分が生まれてきた意味を確認する作業である」といった言葉が、障害者の口から語られる。

しかし、現実の介助の現場でさえ、正面から障害者の性と向き合うことはタブー視されてきた感が否めない。

例えば、両上肢機能障害者であれば、性欲が溜まったところで自慰行為すらできない。移動機能障害であれば、一人で風俗店を訪れることも難しい。
語られることがないだけで、障害者の介助現場では、手足が不自由な障害者の「手」となって、社会福祉士や肉親がマスターベーションの介助をすることが、決して珍しいことではない。

脳性麻痺により日常生活動作不能、歩行不能、さらには気管切開により酸素吸入器常時使用の身体障害者の男性がいる。彼は、年に一度介助者を同行して吉原のソープランドへ赴く。しかも彼は、行為の最中は酸素ボンベを外して、まさに命がけで性行為を行うのである。
ちなみに、彼は'32(昭和7)年生まれである。
「性は生きる根本と思う」とは、彼の言葉だ。

1967(昭和42)年生まれの、ある身体障害者の男性は、インターネット掲示板上に、「性のボランティアをやってみませんか?」と書き込んだ。
「障害者がセックスだなんて贅沢だ」という誹謗中傷のメールが大半を占める中、その掲示板を見て承諾する旨のメールをくれた22歳のOLがいた。彼はその女性に、池袋の障害者用トイレ内でマスターベーションの介助をしてもらう。それまで、彼は夢精でしか射精の経験がなかった。
その後、彼は健常者の女性と知り合い、周囲の反対を押し切る形で結婚。現在も幸せな夫婦関係を続けている。

改正風営法により、無店舗型性風俗業(所謂デリヘル等)が営業可能となったことも追い風となり、障害者専門風俗店も登場するようになった。また、出張ホストクラブ(サービスとして、性行為を含む)も登場し、その中には障害者割引を実施している店もある。

ある女性は、先天性の股関節脱臼により車椅子生活を余儀なくされた。彼女は、信頼を寄せている同性の介助ヘルパーに性の悩みを相談する。彼女が、25歳の時である。そして、「出張ホストクラブ」の存在を知り、両親公認で、週に一、二回同じホストを呼んでいる。彼女は障害者割引サービスを使っており、その料金は両親が出している。

29歳の時に、頸椎にできた腫瘍が原因で、鎖骨から下の感覚がない女性。当然、彼女はオルガスムスを感じることは出来ないが、感覚のある部分とない部分の境目が非常に敏感で、彼女はそこに大きな快楽を感じる。彼女には常に二、三人の性交渉の相手がいる。
彼女には結婚歴があり、障害を理由に離婚。小学生の娘は、元の夫が引き取っている。そして、彼女は余命3から5年と言われている。

その一方で、セックス行為をボランティアとして行えないか、と模索する人たちがいる。しかし、次に挙げるようなさまざまな問題を抱えているのが実情だ。
自分自身も射精し、快楽を得る場合がある。
金銭の授受がないことで、却って感情的に割り切った関係を築くことが難しい。
ボランティアにパートナーがいる場合、障害者が罪悪感を感じる。

身体障害者に比べて、知的障害者の方が、より性がタブー視されている。寝た子を起こすな」的な理由から、彼らには満足に性の知識すら与えられていないのである。
その現状を打破するために、知的障害者の性を支援する試み行っている人たちがいる。彼らがワークショップを行って痛感していることは、障害者よりもその支援者の方に、彼らの性を受け入れることへの抵抗感が根強いという事実である。
そして、知的障害者への性がタブー視されている原因のひとつに、優生保護法の存在がある。

さて、性の先進国オランダでは、(有償なので、正確にはボランティアとはいえないが)「SAR」というセックスボランティア団体がある。
またいくつかの自治体では、広く公にはしていないが、一定の要件を満たせば、障害者にセックス行為のための助成金を支給している所がある。そして、障害者の肉体のみでなく、心の渇きをも癒す試みとして「代理恋人療法」というものが行われている。
ちなみに、オランダでは同性愛も安楽死も売春も認められている。

ただ、そのオランダでさえ、障害者がそのようなシステムを利用する件数は限られており、大きな流れにはなっていない。

この一連の取材の中で、著者は「なぜあなたが障害者の性について取材をしているのか?」と、何度となく問われたという。
彼女の答えは「障害者の性を偏見でしか、もしくは、障害者の恋愛を美談でしか語られていない現状に疑問を持ったからだ」というものである。しかし、この答えでは「なぜあなたが」の部分に対する答えにはならない。
障害者の性を語るためには、先ず自分の性を見つめるべきだ、という視座を著者は避けているのである。

そして、その理由が最後に来て語られる。彼女は、小学校一年生の夏休みに、見知らぬ若い男に物陰に連れ込まれ、彼の性器を見せられた上に、顔に唇を押し当てられた経験を持っていた。彼女はこのことを誰にも話せないまま、20年以上もトラウマとして抱え続けてきた。
その体験を、冒頭に紹介した酸素吸入器常時使用の身体障害者の男性に打ち明ける。すると、彼も子供の頃に近所の女性に何度も性的関係を強要された過去を彼女に語る。

彼女はずっと、彼の言葉「性は生きる根本だと思う」の意味を探して、取材を続けてきた。
その彼の容態が悪化して、介助者が「最後に誰に会いたい?」と問う。
彼の答えは「ソープランドのキョウコさん」というものだった。
そして、著者は思うのである。性とはかくも生と切り離せないものかと。


非常に重いテーマである。そして、アプローチが困難なテーマでもある。

実は僕自身、下肢障害者の友人とは、他愛もない下ネタ話を何度もしているが、どこまで話に踏み込むべきか、をいまだ測りかねている。

このノンフィクションを読んで、僕が先ず思ったのが、健常者であっても、日常的に家族や友人とどこまでリアルにお互いの性について語れるだろう…ということである。
「下ネタ」を話すのと「リアルな性生活」について語るのとでは、全く次元を異にする。

いくら世間一般が、セックスに対してオープンになったとはいえ、それは「行為自体」に関してであり、「ソフト」に関してであり、「風俗」に関してである。現実的な意味において、自分の「性」について語ることは今でも非常に困難だし、勇気を必要とする。

障害者にとっては、なおさらである。いまだに障害者自体がにタブー視から解放された訳でない上に、なおさらタブーとされているについてである。女性については、さらに深刻かもしれない。
しかも最大の問題は、彼らが自立的に自分の性欲を処理できないことにある。
著者が積み上げていくシリアスな現実を前に、著者自身も読者も、自身の「性」を自問せざるを得ない。

そして、著者には幼少期の性的トラウマがある。
勿論、障害者と健常者とを問わず、そもそも「性」という問題に正解はない。人の数だけ回答がある。
しかし、ここまで取材を重ねて、当事者の話に耳を傾けた著者は、敢えて回答を留保して、ボールを読者に、そして社会に投げてルポを終える。

恐らく、それが正解だろう。少なくとも、このノンフィクションを上奏したことで、著者の目的は達せられている。


どんなに時間がかかっても、社会は、我々は、問題の本質から目を逸らさずに、真摯に答えを探し続けなければならないのである。

そこからでしか、真のバリアフリー
は始まらない。