細野晴臣~トロピカル・ダンディーの黄昏 | What's Entertainment ?

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映画や音楽といったサブカルチャーについてのマニアックな文章を書いて行きます。

いきなり大仰な表現になるけれど、「20世紀の日本ロック界で最も重要な人物は誰か?」と問われた場合、僕の答えは決まっている。
トロピカル・ダンディーこと細野晴臣である。 彼の歩んだ足跡を辿るとそれはそのまま日本のロック史になる、と表現してもいい。


35mmの夢、12inchの楽園

細野は、ベーシストとしての技術も、作曲家としての才能も、オーガナイザーとしての資質も、プロデューサーとしての能力も卓越している。 特に、ベースの腕前は、あの山下達郎をして「細野さんのベースは日本一。世界に誇れる技術レベルだ」と言わしめたほどである。
しかし、彼の最大の特性は何かといえば、それは常に
音楽界の最先端を行くということに他ならない。新しいことが彼のアイデンティティなのである。


35mmの夢、12inchの楽園

彼のプロとしてのキャリアは、1969年のエイプリル・フールに始まる。しかし、彼の音楽家としてのアイデンティティが発揮され始めたのは、言うまでもなくはっぴいえんどからである。


35mmの夢、12inchの楽園


今でも「風をあつめて」がCMに使われたり、カバーされたりしているが、この時期から彼は確実に頭角を現し始めた。
面白いのは、彼の活動とはっぴいえんどの同胞である
大滝詠一の活動が、80年代まで常に細野とシンクロしていることである。


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1972年に大滝がファースト・ソロ『大瀧詠一』を発表すれば、翌年に細野もファースト・ソロ『HOSONO HOUSE』を発表する。この2枚のアルバムは、彼等がはっぴいえんどとして折衷していた才能を、初めて各々の等身大で表現したものである。その意味では、共に内省的な作品であると言える。


35mmの夢、12inchの楽園

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そして1975年には、大滝『ナイアガラ・ムーン』(細野もベースで参加)、細野『トロピカル・ダンディー』を発表。大滝がフィル・スペクターからブリル・ビルディング、果てはニューオリンズ・サウンドまで独自の個性を出せば、細野は、その当時彼が聴きまくっていたエキゾッチック・サウンド、古き時代のハリウッド映画音楽、中国歌謡をミックスした、これまた独自のチャンキー・ミュージックを披露する。


35mmの夢、12inchの楽園

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1976年には、大滝『ゴー!ゴー!ナイアガラ』、細野『泰安洋行』を発表。しかし、大滝の主催するナイアガラ・レーベルも細野の主導するティン・パン・アレーも活動が行き詰ってくる。


35mmの夢、12inchの楽園

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1978年、大滝は『レッツ・オンドー・アゲイン』を最後にいったん自身のナイアガラ・レーベルを閉鎖。同年、細野もレコード会社をクラウンからアルファに移籍して『はらいそ』を発表。自身のトロピカル三部作を完結させ、ティン・パン・アレーもその活動を終息する。


35mmの夢、12inchの楽園

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そして、大滝1980年4月18日に起死回生のロング・セラー・アルバム『ロング・バケイション』のレコーディングを開始。細野は、1980年2月に発表したYMOの『パブリック・プレッシャー』で自身初のオリコン・チャート第1位を獲得。その後の二人の活躍は、言及するまでもないだろう。


35mmの夢、12inchの楽園

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面白い話がある。1980年の正月に、しばらく音信が途絶えていた大滝が、細野宅をひょっこり訪れたという。その時、彼にしては珍しく「細野さん、俺今年はやるよ」と宣言したそうだ。なんとも予感めいた話だが、まさに彼等は自身のブレイクのタイミングまで、シンクロしていたのである。



細野の活動歴に話を戻そう。はっぴいえんど解散後、細野は鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママを結成。


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しかし、バンドの顔となるボーカリストが見つからず、ゲスト・ボーカルを入れてライブ活動を行うが、活動の力点は徐々に他のミュージシャンや歌手のバッキングにシフトして行く。そして、結局キャラメル・ママはティン・パン・アレーという一種のミュージシャンの集合体へと発展的に解消する。鈴木茂はその活動方針が非常に不満で、一時ハックル・バックの活動を並行して行っている。


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しかし、このバッキング活動こそが、ロックのスタジオ・ミュージシャン的なものの礎となる。それ以前の日本では、バッキングといえば、ジャズ・ミュージシャンが中心であった。
事実、荒井由実、吉田美奈子、久保田真琴と夕焼け楽団、雪村いずみ、ロニー・バロン、いしだあゆみ、アグネス・チャンとティン・パン関連のプレイヤーがバックを務めたミュージシャンや歌手の作品には、傑作が並ぶ。
そして、前述したトロピカル三部作は、一足早いワールド・ミュージック的な活動だし、これらの作品は海外のミュージシャンにも影響を及ぼした。


YMOの初期はマーティン・デニーのエキゾチック・サウンドとジョルジオ・モルダーのディスコ・サウンドをシンセサイザーとコンピューターを媒介にミックスするという力技で、時代の最先端の音を追求して行く。


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YMOはその後、『BGM』『テクノデリック』といった世界的なレベルで見ても最先端の、ダークなニュー・ウェイブ・ミュージックをクリエイトする。その後、活動の一時休止を経て、『浮気なぼくら』でもうひと遊びした後、YMOは散開する。


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YMO期の細野は、プロデューサーとしてシーナ&ザ・ロケッツやサンディ&ザ・サンセッツ、ゲルニカを成功に導き、高橋幸宏とYENレーベルをスタート。自身久しぶりのソロ・アルバム『フィルハーモニー』('82)発表を皮切りに、戸川純のような個性的なミュージシャンを続々と輩出する。
また、作曲家としては松本隆と組んで、イモ欽トリオ、松田聖子、中森明菜等に曲を提供。大ヒットを量産する。


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その後、YENは解消。細野はテイチクに移籍して、新たにノンスタンダードモナドという二つのレーベルを立ち上げる。そこでも、新しいミュージシャンの発掘や自身のソロ・アルバム制作を行う。
この時期、細野は積極的にCMやゲームのBGM、映画音楽を担当。テクノから環境音楽まで幅広い活動を行う。彼が1984年にノンスタンダードから発表した『S-F-X』は、サンプリングという最新のテクノロジーを駆使して、さまざまなワールド・ミュージックのエッセンスを取り入れたテクノから何とヒップ・ホップまでを展開している。この時期までの細野は、間違いなく日本のミュージック・シーンにおける最先端を追求し続けていた。

35mmの夢、12inchの楽園


それからの彼は、いささかスピードを落としてマイ・ペースな活動期に入る。コシミハルや森高千里とコラボレイトしたり、忌野清志郎、坂本冬美とHISを結成したり、久保田真琴とのハリーとマックでアルバムを制作したり、と好奇心の赴くままに多彩な音楽活動を展開する。

そして、近年には高橋幸宏とテクノ・ユニットのスケッチ・ショウを結成。それに坂本龍一を加えたヒューマン・オーディオ・スポンジ、ついにはYMOの再結成へと続く。


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彼の最新の動きと言えば、細野晴臣と東京シャイネスによるライブ活動がある。はっぴいえんど時代の曲まで取り上げていて、歌手としての細野に原点回帰、オールド・ファンを狂喜させている。


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それにしても、何と息の長いトップ・アーティストだろうか。細野や大滝の前には国内に手本となるものがなく、まさに自分たちがフロンティアであり、全てが試行錯誤の連続だった。彼等の活動こそが、後進への道程となったのである。そもそも、ロック・ミュージックは独立したビジネスですらなかったのだ。
ミュージシャンなどヤクザ稼業としか思われていなかったのが、今やアーティストと言われる時代である。時代は変わったのだ。

それもこれも、細野晴臣という日本ロック界の巨人がその一端を担ってきたのである。


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細野晴臣は、いつでも新しい。
彼には、活動の黄昏期など存在しないのかもしれない。