中郡英男『誘拐捜査 吉展ちゃん事件』 | What's Entertainment ?

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中郡英男『誘拐捜査 吉展ちゃん事件』読破。今回は、その感想を書きたい。この本は、2008年に創美社が発行し、集英社から発売された犯罪ドキュメンタリーである。

35mmの夢、12inchの楽園

吉展ちゃん事件と聞いてピンと来る人は、かなりお年を召した人か日本の凶悪犯罪に興味を持っている方くらいだろう。この幼児営利誘拐事件が起きたのは、東京オリンピックよりも前だからである。
当然、僕も生まれる前の事件である。

著者は犯人逮捕当時、警視庁記者クラブ「七社会」の東京新聞キャップを務めていた、元新聞記者である。


先ず、吉展ちゃん事件の概要を記そう。

35mmの夢、12inchの楽園

1963年(昭和38年)3月31日午後6時頃、東京都台東区入谷町の建設業・村越繁雄(当時34歳)の長男、吉展ちゃん(当時4歳)が近くの公園で誘拐された。4月2日午後5時48分、村越宅に犯人から身代金50万円(現在の200万円に相当)を要求する最初の電話がある。計8回の脅迫電話を経て、村越さんの妻・豊子(当時27歳)が犯人の要求どおり現金50万円を指定された場所に持って行った。しかし、警視庁の失態により、身代金が持ち去られた上に吉展ちゃんは戻らず、しかも犯人には逃走された。
4月25日、警視庁は録音した脅迫電話の声を一般に公開して、情報提供を求めた。その結果、福島県生まれの時計職人・小原保(当時29歳)が容疑者として浮上した。

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5月21日最初の小原捜査に着手。2件の別件逮捕により、22日間の取り調べを行った。しかし、さまざまな情報提供や状況証拠があったにもかかわらず、捜査上の度重なる不手際、小原が下肢障害者であったこと、彼が声を作っており脅迫電話の声とは印象がかなり異なっていたこと等から、警視庁は小原を「ほぼシロ」とみて釈放した。

11月27日2度目の小原捜査に着手。12月5日に小原を別件逮捕。12月11日小原の身柄を警視庁に移し、約2ヶ月間の取り調べを行った。しかし、この時の捜査にも不手際があり、1964年(昭和39年)2月24日「シロに近い」として小原捜査を打ち切った。

しかし、どうしても小原に対する疑念が払拭し切れない警視庁は、世間の吉展ちゃん事件における捜査失敗への叱責と重大犯罪に対する内部の厳しい認識にも後押しされる形で、1965年(昭和40年)5月13日3度目となる小原捜査のための新捜査陣を編成した。これに遡る前年('64)3月31日小原は、窃盗罪による懲役2年の実刑で前橋刑務所へ収監されていた。
6月23日から東京拘置所に身柄を移された小原に対して、平塚八兵衛刑事らが10日間の任意取り調べを行った。しかし、自供を得られぬまま7月2日取り調べは終了。

7月3日ある問題から声紋鑑定のために小原の声を再度録音する必要に迫られた警視庁は、平塚らに小原との最後の面会を実施させた。その雑談中に小原が失言したことに気づいた平塚が、急遽上司から非公式の許可を得て、一気に小原を追求。2年間犯行を否認し続けた小原が、一部自供するに至った。
7月4日午後7時35分、小原を営利誘拐、恐喝容疑で逮捕。小原は全面自供した。7月5日円通寺墓地にて吉展ちゃんの遺体発見。

35mmの夢、12inchの楽園

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1967年(昭和42年)10月13日最高裁の上告棄却により、小原の営利誘拐、殺人、死体遺棄、恐喝罪による死刑が確定した。
1971年(昭和46年)12月23日小原保の死刑執行。享年38歳と11ヶ月であった。

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さて、この事件が起きた頃の社会情勢について触れておく。当時は、東京オリンピック開催に向けて国民全体の気持ちが高揚していた時期である。そして、折りしも高度経済成長の真っ只中でもあった。丁度、日本社会が転換期を迎えていた訳だ。

吉展ちゃん事件の捜査によって、日本の警察組織もまた、大きな転換期を迎えた。

ひとつは、旧来の取調べによる自白重視の捜査手法から、より客観的な証拠を重視し人権等法律に遵守した現在の捜査手法への転機となったことである。
もうひとつは、犯人の自供により証拠採用には結びつかなかったものの、この事件をきっかけに警察は「声紋鑑定」を重要な捜査方法のひとつと位置づけるようになった。科学的捜査への本格的取り組みは、ここから始まったと言ってもいいだろう。


本書を読むと、その気が遠くなるような捜査の大変さ、さまざまな軋轢、マスコミ対応、人権問題との相克、を目の当たりにすることになる。しかも、現代とは異なり、捜査手法も人力に頼ることが多かった時代である。強引な取り調べや、違法すれすれの捜査など、確かに冤罪や誤認逮捕が起きても何の不思議もない捜査環境であった。
そのことを考えると、「帝銀事件」や「免田事件」等の再審請求や冤罪確定についても、深く考えさせられてしまう。

35mmの夢、12inchの楽園

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ただ、読んでいて気になる点がいくつかあったので、指摘しておきたい。

先ず、著者が新聞記者であったため、事件そのものがジャーナリズムの視点で描かれ、事件周辺のマスコミ各社の対応等にもかなりの頁を割いていることである。マスコミの動向も事件捜査には大きく影響するが、いささかその部分を取り上げ過ぎの感が否めない。
また、彼自身の取材により明らかになった捜査関係者の人物造形に力を入れるあまり、頻繁に話が吉展ちゃん事件から脱線して行くことも気になった。

この2点をもう少し抑えて、事件そのものをストレートに綴った方が、より密度の濃いルポライティングになったのでは、との恨めしさが残る。


さて、著者が本書に着手したのは、彼が喜寿を迎えてからである。なぜ今になって、彼は45年も前の事件を振り返るルポを記したのだろう。

彼が東京新聞記者時代に手掛けた記事に、『警視庁ものがたり』という連載があった。その中で、本事件の功労者である平塚八兵衛の回顧談を取り上げた。その連載が元となり「伝説の名刑事・平塚八兵衛が自らの捜査信念を貫き、上司や部内の反対論を強硬に押し切る形で、迷宮入り寸前の事件を解決へと導いた」との見方が、吉展ちゃん事件の定説となった。
しかし、数年の歳月を経て、彼が周辺取材を進めるうちに、事件はそのような「単純な図式」では語り尽くせない複雑さを内包していたことに気づかされたのである。

35mmの夢、12inchの楽園

彼は、「吉展ちゃん事件=平塚ひとりの手柄」という図式を描いた責任の一端は自分にあるとの思いを、以来ずっと持ち続けていた。
彼にしてみれば、本書の執筆はいわば彼の記者人生へのひとつのけじめであったのだろう。

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さて、現在の犯罪捜査に目を向ける時、状況は本当に変わったのか?との思いが頭をもたげて来る。行き過ぎた取り調べや誤認逮捕、被害届けの隠匿、冤罪は決してなくなってはいない。
古き捜査の伝統というものは、そう簡単に払拭されるものではない。それは、先人が残していった「知恵」であり「記憶」であり「信念」であるからだ。

そして、問題は警察だけではない。検察、裁判所が内包する課題に目を向ける時、我々の社会は如何に脆弱なシステムの上に成り立っているのかに思い至り、震撼するのである。

裁判員制度という新しいシステムが稼動を始め、日本国民全員が事件関係者になる可能性がある現在、我々に突きつけられた課題は、実に重たいのである。