じゃがたら…という狂気と情熱 | What's Entertainment ?

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映画や音楽といったサブカルチャーについてのマニアックな文章を書いて行きます。

今回は、日本が世界に誇れるロック・バンドであったじゃがたらについて書こう。

R-18 A Go-Go! ~女と男のいる鼓動~

この文章をお読みになって興味を持った方は、是非彼らのCDを購入して頂きたい。一人でも多くの人にこの偉大であったバンドの音を体験して欲しい。もはや、過去形で語らなければならないのが悲しいが…。

彼らは、はっきり言ってアンダーグラウンドな存在であった。バンド名は何度も変更になっている。ここでは、一番とおりのいい「じゃがたら」に統一する。 ピンク・フロイドを語る時、シド・バレットの狂気について触れざるを得ないように、じゃがたらを語る時、江戸アケミの狂気について触れざるを得ない。

R-18 A Go-Go! ~女と男のいる鼓動~

じゃがたらは、リーダーでボーカルの江戸アケミを中心に、1979年に活動を開始する。当初は、音楽云々より、アケミの過激なパフォーマンスのみに注目が集まった。全裸になる、ニワトリやシマヘビを生きたまま喰いちぎる、放尿、飲尿、浣腸、脱糞、一度食べたものを嘔吐してまた食べる、額を割って流血する…とにかく、過激さのための過激さというか、自虐のエスカレーションのような阿鼻叫喚のステージであった。

R-18 A Go-Go! ~女と男のいる鼓動~

35mmの夢、12inchの楽園

35mmの夢、12inchの楽園

音楽よりも風俗として扱われることに疲れ、自らの肉体を痛めつけることにもうんざりしたアケミは、1981年から音楽活動に専心することを決める。時を同じくして、その後のじゃがたらサウンドの核を担うOTO(g)が加入。演奏力も向上し、サウンドも固まっていく。

35mmの夢、12inchの楽園

35mmの夢、12inchの楽園

じゃがたらの音楽性を表現すれば、アフロ、ファンク、パンク、ロックンロール、ダブ、レゲエといったさまざまな要素が渾然一体となった音、ということになるだろう。そして、基本的なトーンは暗くて重い。
ダークなファンクということで類例を探すとすれば、僕にはスライ&ザ・ファミリー・ストーン『暴動』くらいしか思い浮かばない。

35mmの夢、12inchの楽園

基本的に、ファンクはラジカルでパワフルな音楽だから、くすんだトーンとは相容れないのだ。それを奇跡的に実現したのがスライであり、じゃがたらだった。このことだけでも、彼らの凄さが分かるだろう。
35mmの夢、12inchの楽園

満を持して1982年にファースト・アルバム『南蛮渡来』を自主制作で発表。その高度な音楽性が一部のロック専門誌上で絶賛される。僕の尊敬する渋谷陽一氏もいち早く彼らを評価した音楽評論家の一人である。
それにあわせて、勢力的なライブ活動も展開。着実にインディー・シーンでの足場を固めていく。

しかし、その矢先、音楽に対して人一倍真剣で純粋であったアケミが精神に変調を来たす。1983年のことであった。それでも、何とかライブ活動を続けるも、11月23日朝7時から演奏を開始した法政大学でのコンサート途中、ついにアケミは歌うことをやめて、ステージを降りてしまう。そして、アケミは入院。統合失調症であった。
1984年1月1日に内田裕也の要望により、じゃがたらは『10+1 New Year Rock Festival83~84』に出演。入院中のアケミは、病院から保護者付き添いの外出許可で参加。その後、2月25日屋根裏にてライブ。ここでも、アケミは病院から外出許可をもらい出演。

35mmの夢、12inchの楽園

この法政大学と屋根裏での演奏は、それぞれを入院前サイド、退院後サイドに分けて1985年に『君と踊りあかそう日の出を見るまで』という前代未聞、空前絶後のライブ盤に収録されている。このアルバムには両面に彼らの代表曲「Big Door」が敢えて2つ収録されている。彼らは、リスナーに聴き比べを迫っているのだ。入院前サイドの「Big Door」は、まさに何かに憑かれたような異常なテンションのアケミの歌が凄い。こんなに鬼気迫る歌は、そうはない。僕は、この時のアケミにジム・モリソンを重ねる。

しかし、極度の鬱状態から脱することのできないアケミは、3月31日に四国の田舎にて療養生活に入ることとなった。
そんなアケミ不在の間も、他のメンバーは定期的に練習を重ね、他バンドとのセッションやアケミ抜きの「じゃがたらⅡ世」で活動を続け、アケミの復帰を待っていた。
そして、1985年9月15日の日比谷野音『アースビート伝説'85』にて、体調は不完全ながらもアケミが復帰して、じゃがたらが復活パフォーマンスを行う。その後も、アケミの病状は一進一退を続けたが、翌1986年に入るとアケミの調子が戻り、ライブを重ねるごとに、アケミ本来の力強さを取り戻していった。
35mmの夢、12inchの楽園
35mmの夢、12inchの楽園

1987年には自主制作で『裸の王様』『ニセ予言者ども』と2枚のアルバムを発表。ライブ活動も活発に行っていった。

1989年、ついにメジャーから『それから』を発表。同年に『ごくつぶし』も発表し、精力的に活動を展開していたかに見えた。
しかし、実際にはアケミは不眠症に悩まされ、睡眠薬を常時服用していた。
そして、1990年1月27日自宅の浴室でアケミが死亡しているのが発見された。死因は溺死であった。
このことにより、じゃがたらの歴史は突然の終止符を打つこととなったのである。

35mmの夢、12inchの楽園


余談ではあるが、僕は1987年に明大前のマニアックなレコード店「モダーン・ミュージック」に彼らの『裸の王様』を買いに行った時、チンドン屋をやっているアケミと篠田昌己(sax)に遭遇したことがある。恐らくは、路上でパフォーマンスをしていたのだろう。
その篠田も1992年12月9日心筋梗塞のため鬼籍に入った。
また、OTOはピンク映画の女王だった橋本杏子と付き合っていた時期があった。それから、彼は中村京子がMCとして出演していたアダルト・ビデオに男優として出ていたことがある。ここら辺の事情は、中村京子と橋本杏子が友達だったことが関係しているのだろう。

R-18 A Go-Go! ~女と男のいる鼓動~


江戸アケミという狂気を孕んだ天才を亡くしたことで、じゃがたらは失われた。しかし、彼らの残した素晴らしい音楽を僕たちは聴き続けなければならない。そこには「生きることの力」が込められているのである。