共通善   ~「棘の道」その2 | フラメンコギタリスト樫原秀彦のブログ 

フラメンコギタリスト樫原秀彦のブログ 

日々の気づき
忘れるもの忘れないもの
変わるもの変わらないもの

共通善   ~「棘の道」その2

少し前に「これからの日本を考える」という様なタイトルの討論番組をたまたま観ました。
出演者は30代から40代のわりと若い世代の方達で、司会者の意図的な誘導や稚拙な論争もなく、
良質なNHKの番組でした。その中で幾つか聞き慣れない言葉が飛び交っていたのですが、
僕が特にシンパシーと違和感を同時に持ったのが、ある政治哲学者の方が発していた
「共通善」という言葉でした。

僕なりに解釈すると、個人としての善と悪の定義には多少の差異があるものの、
社会として概ね皆が共有する亊が出来る善というものがあり、
それを「共通善」と定義付けたという亊だと思います。(反意語=共通悪)

詳細は省きますがその解りやすい例をあげると、
3・11の直後に日本の社会でとられた様々な個人の行動は
この共通善が元になっていたという亊です。
問題なのは震災等の非常時には、この共通善が社会の上に顕著に表れるが、
平時に於いては見えにくくなってしまう亊。
時とともに風化し一過性のもので終わってしまいがちな亊。
社会に反映される共通善のレベルは個人が認識している善のレベルよりも低く劣っている事。
そして少数ではあるが、義援金詐欺や車上荒らし等々、
善の影には常に悪が蔓延っているという亊です。
やはり諸悪の根源は「金」なのでしょうか・・・?
「金」の亊を書き出すと3日3晩ぐらい平気でかかると思うので話しを元に戻します。(笑)

これからの日本社会に求められている亊は、「共通善」を基軸にしたシステムや
制度の再構築だ、という亊が真しやかに前段の番組でも言われていましたが、
本当にそうでしょうか?

それは所詮、個人をとりまく外的要因にただ応急処置を施す様なもので、
小さな効果を得るには確かに有効ではあるが、
ある意味で苦渋の選択に過ぎないのではないか、
社会がかかえている多岐に渡る問題の根本的な解決には至らないのではないか、
と僕は考えます。

まず僕達がするべき亊は、今一度、自分自身の中にある善と悪を深く見つめる。
社会から孤立、或いは抹殺される亊を恐れ、生きる為、家族を守る為、
組織の和を乱さない為、など、いろいろな理由付けをして、
心の中では悪と感じていながら仕方なくやってしまっている行いを
勇気を持ってやめる。 
決して容易い亊ではありませんが、そんな努力を僕達ひとりひとりがする亊だと思います。

その人のイデオロギーによって表現の仕方は様々だと思いますが、何でもいいんです。
今、求められている亊は、
個人の魂のレベルを上げる。高次元へ移行する。人間が進化する。
そうする亊により共通善のレベルは必然的に上がり、話を一気に飛躍させると、
結果、もしかするとシステムや制度など必要のない世界になるかもしれません。

更に究極の理想を言えば、いつの日か、善と悪という概念すら存在しない世界で
僕達は互いを慈しみ合いながら生きているかもしれません。
いずれにしても個人として、社会として「棘の道」を歩んで行くという亊なのでしょう。


今日は5月26日のライヴで共演するピアニストの中島順子さんの紹介記事を書くつもり
だったのですが、前ふりがとても長くなりました。。。

中島さんとは十数年前にある企業犯罪(違法性はないが社会倫理からは逸脱していた)
の苦情対応をする派遣社員で構成されたコールセンターで出会いました。
正義感が強い中島さんは僕に、「こんな亊が許される筈がない。」
という言葉を残し退社しました。
(その後、その企業は行政指導を受け、程なく100名を越えた苦情対応部署を解散。
派遣切りを強行。幾つかの企業と吸収合併を繰り返した後に消滅。)

僕は恥ずかしながら最後まで企業犯罪の方部を担ぐ仕事を継続した後に退社。
その後、別の派遣会社から斡旋された銀行の外貨預金のセールス
(当時1ドル=120円前後を推移)を電話で行う仕事に就くが、
高額預金を持つお年寄りに対し言葉巧みに根拠や確証もなく外貨預金を進める亊に
良心の呵責と前段の企業での苦い経験、大きな後悔を理由に直ちに退社しました。


またまた話しがそれましたが、そんな正義感の強い中島順子さん。 
震災後、何度か石巻にボランティアとして足を運び、ヘドロをすくう作業を一生懸命していました。

次回のライヴではフラメンコではない曲を数曲やる予定ですが、その中のひとつ、
ブラジルが生んだ鬼才「エグベルト・ギスモンティ」の叙情的な美しい名曲
「Ano Zero~befor the beginning」を
僕と同じくギスモンティの音楽をこよなく愛するパーカッショニストの森智紀君と3人で演奏します。

この曲は敬虔なクリスチャンであるギスモンティが父親になった歓びと、
性悪説ではなく「人は生まれながらに善である」という性善説への思いを込め、
我が子へ捧げた曲なのではないかと僕は勝手に解釈しているのですが、
あれから十数年、人としてミュージシャンとして少しだけ成長した中島順子さんと僕、
そして今年の1月に父親になった森智紀君が、どんなインプロビゼーションを展開していくのか
今からワクワクです!

                                  次回ライヴの第一部、二曲目にこの曲を演奏します♪♪♪