風のかたちⅡ -21ページ目

派遣労働契約の終了=雇止め・・・特段変な判決ではないのだが、これでよかったのか。

家のお嬢が企業法学のゼミの宿題で「伊予銀行・いよぎんスタッフサービス事件」の松山地裁・平15.5.22、高松高裁・平18.5.18の判決をもって帰ってきた。有名なhamachannブログhttp://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/ にも出ていた判例なので読んでみた。


最大の論点は、派遣労働の場合は、長期間にわたり有期の雇用契約の反復更新にもとづいて就労が行われていれば、派遣元企業との間で雇用契約の継続の期待が生じ、反復更新された有期雇用契約の雇止めについての解雇権濫用法理の適用の余地が生ずるが、本件事件のような派遣元と派遣先との間の派遣契約の終了は、「当該雇用契約が終了となってやむを得ないといえる合理的な理由」であるので解雇権の濫用にはあたらないということだ。



こうした判示を喩えで言うならば、不適切な喩えにならざるをえないが、会社Aが会社Bとの間で物品Cの賃貸借契約を毎年繰り返してきた。その契約がうち切られたとき、会社Bは会社Aから物品を引き上げるのは当然、自社内で使用しつづけるか処分するかも会社Bの判断による、ということだ。

派遣元企業と労働者の関係が派遣契約の終了と同時に打ち切られたことが正当とされたことは、物品Cを賃貸借契約の終了と同時に会社Bが廃棄する行為に似ている。実は物ではない心のある生活のある人間なのだが、あたかも商取引契約を前提とした物であるかのごとく扱われるざるを得ない法律になっているのだ。本件事件における労働者が派遣元ISSとの雇用関係を主張して認められなかったのは、派遣法に基づく以上は、致し方なかったと思わざるをえない。


細かい事実関係をみれば、昭和62年の派遣法施行直後の状況の下で、当該労働者の派遣開始に当たり、銀行の子会社的位置づけの派遣元が派遣元としての独自性を疑われるような採用・派遣を行っていて(判決ではぎりぎりセーフといった認定とみえるが)、労働者側からすればどちらに雇われたの?と思って仕方のない要素は少なからずあるのだし、その後の派遣労働者の管理においても派遣先=親会社が雇用主であるかのごとくみえておかしくない側面が散見される。しかし、そうした、派遣法に照らして不適当な派遣・使用管理の事実があったとしても、それが、当該労働者と銀行の間の雇用関係を類推させるものにはなりえないのは、事実経過、書証そして派遣法の解釈からして致し方ないところかとみた。


高裁でこうした判決が出たことは(最高裁に上告中とはいっても)、登録型派遣労働については、相当の不安定性を前提とする雇用形態であることが明確になったということだろう。派遣労働者を使用する側としては、心おきなく長く使用できること、パート等の有期契約の労働者の比ではなくなるのは明らかだ。果たしてそれでよいのかどうか。社会的公正の観点からして釈然としないものが残る。この判例の方向(もうひとつ類似事件は早くも最高裁で上告棄却となったようだが)のままに労働市場に係る契約のあり方が認められるのか社会全体の厚生の観点から望ましいことなのか・・・考えなくてはならない問題があると思う。


それにしても、うした判決についても福井先生は、公共経済学のなんたるかを理解しない、世間知らずの法律屋の仕業というのだろうか。判決は、契約論に限って論理構成しているのだが、その背後には、先生の大嫌いな<正社員既得権の擁護>という価値観があり、判決部の論理構成上で非常に重要な役割を果たしたのではないか。即ち、「派遣法は派遣先の常用労働者の雇用の安定をも立法趣旨とし、派遣期間の制限を置くなどして両目的の調和を図っている」として、常用代替防止機能を評価し、それを以て、同一企業に12年以上派遣された登録型派遣労働者が「派遣による雇用の継続にについて強い期待感を持つことは明らか」であっても、その期待は「派遣法の趣旨(常用代替防止)に照らして合理性を有さず、保護すべきものとは言えないと解される」としたのである。


結果的に労働市場の流動化を促進する結果となる判決の場合には、法律家に対する罵倒をなさらないのだろうか。私には人間のあり方として信を措きがたい。(判決文風に言えば、措信しがたい。)



BS討論 0625Ⅰ-非正規雇用の是非

八代尚弘 vs 森永卓郎、金子勝 ふうで、八代先生が1人でがんばっていた。日本社会のこれからの設計図としての一貫性ならば、経済財政諮問会議の実質的リード役だけあって出来上がっているし、それについての信念めいたものも感じられる。八代先生の優勢勝ちにみえる。


しいて言えば、非正規雇用の現状、年収は200万円台、家族を形成すること、次世代を育てることも困難といった状況が広く認識されているためだろう、ギャラリーの雰囲気は八代先生には批判的だった。前首相が巧みなシンボル操作で「『構造改革』に反対するのは悪いヤツ」という雰囲気を作り上げたが、カリスマが去ったあと、政治家ではない八代先生にとってはギャラリー・大衆の雰囲気まで変えるのは難しい。


在野の両先生も、ギャラリーの応援はあったが、八代先生が推進する「構造改革」の問題点についての批判(例えば、これ以上に非正規労働&低労働条件・雇用不安を進めては日本社会のサステナビリティーに関わるといった批判)はできても、そうした問題を含めて改革するのだという八代先生の多元論を崩し切れない。対置する社会モデル・経済モデルを作るのは、一匹オオカミ風の学者の手に余る仕事だ。


森永・金子先生の追求は、モグラ叩きに似ていて、一つを叩く(例えば非正規問題)を叩くと、正社員との二重構造こそが正すべき問題、格差の原因は正社員の手厚い雇用保護と年齢スライド式の処遇にあるという別のモグラを出される。これに対してすっきりとした雇用システム論をぶつけきれないのが両先生だ。


かつての二重構造論は、大手企業と中小企業の間でだけ語られていたが、正社員層と非正社員という雇用「身分」の二重構造がより大きな問題になっている。以前ならば、アルバイトと言えば学生のもの、青春期のエピソードにすぎないものだったし、パートといえば家計補助的な文字通りの短時間就労がほとんどで、社会問題とする必要は薄かった(母子世帯の問題や長期勤続パートについて仕事内容と処遇の均衡を図るといった問題以外は)。


しかし、今は、非正社員が雇用者の33%に達している。問題は、それが「構造改革」の悪しき結果なのか、失われた10年の間、企業を守り最低限度の雇用を守るためのやむを得ない方策だったのかという総括もないままに、一方では規制の更なる緩和、他方では格差社会の解決の必要性が語られていることだ。


正直なところどちらも正解で、その寄与度が分からないのだ。そうした点について具体的なデータを示した議論は、残念なことに森永先生は当然、八代先生からも聴かれなかった。(新鋭の阿部正浩が分析していたはずだが・・・後で読んでみよう。)


八代先生は、労働市場の流動化を進めて、裏返すと年功制から仕事給制の社会に変えていくことで、非正規社員の処遇の向上や再チャレンジのチャンスの拡大につながる、それは多様な働き方・生活のあり方を可能にしてWLBの実現にもつながり、社会的厚生を全体として高めるはずだという。


そうした主張が正しいのかどうかは、「空前の好況」「豊かさの実感できない好況」が続いていく中で、格差問題、非正社員の問題がどうなるのか見続けて判断するしかない。それは、労働供給側ではなく、需要側・企業の行動観測でなくてはならない。企業が長い不況期を通じて再編成した雇用ポートフォリオをどのようにしようとしているのかだ。


八代先生の思いとは別のバランスを企業は自然体では求めているのではないだろうか。直感としてはそのように危惧している。


早すぎる夏

梅雨はどこかに行って、今日の空は紺碧だ。晩夏のような黄昏れていく感傷がない、初夏の空は命の燃焼をうながす。こういう時のオジサンは泳ぐに限る。


離島育ちの同僚は、泳ぐ=獲物とり、というすり込みが幼少期に出来たらしく、魚もおらずアワビ、サザエも落ちていないプールで泳ぐ人間の気が知れないというのだ。確かに、狩猟のスリルは真夏の心によく似合う。が、海は余りに遠く、駅前スポーツクラブは余りに近い。


現実はさらに厳しい。土曜の昼間で困るのは、幼児スイミングスクールをやっていることだ。わずか2レーンのフリースイミングのコースを泳いでいると、メダカの群に囲まれているトドのような気分になる。ともかくも、元気に水しぶきを上げる小さなメダカたちに挟まれながらキメにしている1㎞を泳ぎ切る。(顔をあげたときに、左右のメダカたちの以外に大きな波をかぶってしまうという試練にも耐えながら。)

今の仕事に変わる前は、50メートル1分のペースで刻んで1㎞を20分で泳いだ時期がある。1㎞泳いだ後に足にパドルをつけて腕だけで500m×2本もこなすことが出来た。それが最盛期だ。平日、土日を問わず泳ぎにいく気分じゃない状態が長すぎたと思う。50メートルで5秒、100メートルで10秒遅くなってるうえに、1㎞通すのがしんどい。情けないというか、これ以上落とさないことが目的になるのが中高年なのだ。


体力だけでなく、気力、知力全てに言えている。60歳過ぎまで働かされるのが現代のサラリーマンの宿命だ。紛れもなく低下傾向にある能力を維持するだけでなく、創造的な行為の中にレゾンデートルを確認するという営みを続けなくてはならない。人生の秋は、収穫の秋でもあるというアナロジーは通用しないのが les tamps modernes なのだ。


停止はすなわち後退だというのは分かっているが、日々再生を繰り返すプロメテウスのように、という社会心理学者の人間類型論に心動かされた10代の自分は、本当の人生を分かっていなかったからこそだろうと思う。自由で挑戦的な社会というのは、結構、しんどいのだ。


ps.

MLBのBOSvsSDをみた。松坂とマダックスの投げ合い。松坂以上に、41歳マダックスのピッチングを楽しんだ。130㎞台のスピードでも、ピンポイントにコントロールできるチェンジアップがいい。十年以上前、野茂がLAドジャースで快刀乱麻のピッチングをみせていた時、マダックス@ブレーブスは、数少ない20勝投手だった。ボールの切れは往年のものではないけれど、味わいが残る。



契約自由Ⅲ 補遺・前提条件の書き忘れ あるいは研究組織の不在

夜中に、「のだめ」マジックに罹って、100万年ぶりにクラッシックとシンクロしてしまい、古典ひだまり親父になって、大切なことを書き忘れた。


転職して損をするという大橋・中村論文の前提は、日本のこれまでの年功賃金的プロファイが存在している世界、外部労働市場が発達していない世界での実証研究なのだ。


この研究を前提にして、使用者側に解約自由がみとめられた場合の社会的厚生の低下がありうることを言ったって、雇用の流動化と外部労働市場の発達こそが必要、年功的処遇は時代遅れという反論がありうる。


年功的な賃金プロファイルは、全体としては今の日本の大手企業にも観測できるし、だからこそ日本経団連は、「今後の賃金制度における基本的な考え方」(2007年5月15日)を出し、「多くの先進的企業では年功型賃金を見直しているものの、年功型賃金制度や年功的な運用を行っている企業も少なくない」という認識でものを言っている。


変化は決して急激ではないと思う。大手企業は、超過利潤をこの先も満喫できる状況だという見方もあるからだ。何も、息せき切って自社内の気分をおかしくする環境じゃない。そんな中で企業が本気の舵を切る時、それはいつどんな環境の下なのか。



契約自由・・・幸福は増大するか

大竹先生や八代先生の労働市場の理念型は、契約自由(締結も解約も自由)の世界なわけで、これが労働力の最適配置、雇用の量的拡大をもたらし、社会の厚生を増進するというストーリーだ。


エコノミストの方にはなじみやすい発想なのだろうが、実際の労働市場とのギャップの大きさがあって正直なところ飲み込みできない。


話の始めに、過去30年ほどの日本の労働市場の流動化の状況をみる。

雇用動向調査から推計すると、常用労働者に対する就業経験者移動率は、過去30年間、10%を僅かに下回る辺りで「安定的に」推移している。仮に、企業側の解約自由が実現すれば、この10%を基礎として「会社都合」によりはき出される人が純増することになる。どのくらい跳ね上がるかは分からないが。


気になることは、新たに流動化させられるグループ=「会社都合」により流動化させられるグループの厚生が増進するかと言う点だ。


話を簡単にするために、常用労働者の場合について考えてみる。

平成5年の労働白書が「転職は、どの年代層であっても生涯賃金を減少させる。40歳前後での損失は2500万円と最大」という推計を出して話題になった。大胆な(荒っぽい)推計だったらしく、大橋一橋大・中村都立大(当時)が推計をし直した。結論は、転職で損をするのは、年齢が高い層、会社都合、製造業、事務系、職種間移動の条件がある場合だった。


この発見からすると、企業側の解約自由の拡大で増加するグループは、「会社都合」により流動化させられるグループだから、次の職に就くことができたとしても、転職に伴う損失を受ける可能性がある人達だ。これに、年齢条件、産業、職種の条件が重なると損失の可能性は更に高くなるわけだ。


八代先生がおっしゃっている、市場の流動化というのは、既に働いているグループの厚生を全体として引き下げる可能性が大きいことになる。先生は、職業訓練を施してとか仰るが、大橋・中村研究では、職種、産業を変わることも損失を受ける条件の一つにある。先生のせっかくの思し召しが政策の充実につながったとしても、働く者には、プラス方向の流動化にはならない蓋然性の方が大きいのだ。


もうひとつ、八代先生、大竹先生だけでなく玄田先生も仰っている若年者の雇用を回復させる効果のほうはどうだろう。既に働いているグループが既得権益を持って、若者の常用としての入職を妨げているという話だ。


既に雇われているグループが、解約自由で既得権益をなくすのだから、当然、企業の雇用意欲は改善するはずだ(景気等は一定という仮定の下で)。新卒や既卒でも若い年代には朗報だろう。少なくとも、採用されるまでは。しかし、よく考えてみると、その後は厳しいのだ。いつでも解約自由の世界に飛び込むわけだからだ。若いうちならば、解約に伴う損失は少ないからまだよい。しかし、いつまでも人間は若くはない。常用雇用で年を重ねていくほど、解約を受けた場合の損失は大きくなる。


結局の所、解約自由の労働市場は、新卒者や既卒の若者にゲートを拡げはするが、そのゲートの先の世界は、解約により損失を被る危険が年と共に増していくコワイ世界なのではないか。


契約社員のような有期雇用契約は、常用雇用者に解約自由の適応になれば、企業側にとっての有期契約の理由そのものが変化する。これまでの、コスト削減や、雇用調整弁的な位置づけはうすれて、拡大された常用雇用の入り口に飛び込み安くなるだろう。ただし、その後のことは、新卒者等の若者と同じ状況になるのではないか。


派遣社員はどうか、パートタイマーはどうか。

こうしたグループの6割前後は、何らかの理由で、現在の正社員=無限定拘束という働き方を望まない人たちだから、解約自由とは関係はない。残る4割程度の「正社員になれなかったから」という理由でハケン、パートである人たちには、常用転換の門戸が広がるという所までは朗報だ。しかし、そのあとは、上に述べたとおり。


結局の所、企業側解約自由の実現した世界というのは、働く側の厚生を増大させはしないだろう、と思わざるを得ない。間違いなく、企業側の利益は増大するはずだが、それがどのような形で働くものに還元されるのだろう。日々解約自由の危険にさらされている労働者の賃金がそのコスト分だけ上積みされるだろうか。それはないだろう。労働市場全体が同じ状態ならば、企業はそうした上積みを労働者にする必要はないからだ。


どうも、イメージされるのは、企業のみが繁栄して働く側は今以上に幸福になることはあり得ない世界のような気がするのだが、こういうつまらない心配に八代先生他はどうお答え下さるのだろうか。昨年12月に先生が出版された「カナダ型社会をめざす」という本でも拝読すれば分かるかもしれない(流石にアメリカ型と仰らないのは、先生の戦略眼の確かさ、シンボル操作の巧みさだろう)