風のかたちⅡ -20ページ目

判例法理を根底から覆したいの?? 追記

hamachannブログで、労働法と民法の教会領域の問題の一つについて紹介がありました。いわゆる労働者性の問題です。雇用契約か請負契約か委任契約かのどれかです。実体的には労働者性が高いのに、それを偽るかのような契約形態がとられる具体例ですね。


労働政策研究・研修機構(JILPT)の内藤忍さんが、「メッセンジャーの労働組合」というコラムを書いています。

http://www.jil.go.jp/column/bn/colum079.htm


内藤さんは、自分も自転車便のライダーだった経験をもとに法学者としての見方を端的に整理しています。これをみて、独立行政法人叩き厳しき折から、JILPTはついに過酷な下請けや委託に耐えるマッスル系研究者の採用に踏み切ったと思われるむきがあるかもしれませんが、それは誤解でしょう。JILPTの若手層の質はとても高いようにみえます。

企業の人事裁量権法理をご破算にしては?・・・解雇権濫用法理の実定法化を批判するなら

ずっと気に掛かっていたのだが、解雇権濫用法理を、市場システムの機能を阻害するものと言う場合、メダルの裏表の関係で形成されてきた就業規則の不利益変更に関する判例法理や、配転、出向、転籍等等のいわゆる企業内「人事権」に関する判例法理も同時にご破算にする対応があわせて主張されるべしとおもう。


そうした覚悟のある主張ならば格別、それもなしに市民法的契約自由をという放恣に戻したいというのは片務的ではないか。日本の判例法理は、労働保護の側面と使用者又は経営権保護(言葉は適切ではないが)の側面を併せ持って形成してきたのではなかったのか。


契約自由原則は、一方では、企業が終身雇用を慣行としてきた層の労働者との契約を結ぶ際の白地性(契約書には、あなたを採用します以外は何も書かれていない)を見直し、少なくとも就業規則には、労働条件の変更がその都度の交渉によること(就業規則の不利益変更法理の見直し)、配置転換があること、他法人への出向や転籍があること、その際の労働条件は云々といったことを詳細に規定しなくてはならないだろう。少なくとも、日本の企業が自由に裁量してきた人事配置の裁量性を保持するためには。


日本企業が前提とした新卒一括採用を前提とすれば就業規則の詳細化ですむかもしれない(すまないかもしれない)が、「自由な労働市場」が実現した暁には、労働契約行為は、プロ野球のようなプロ人材の契約を頂点とするような明示化を求められる可能性が大であるし、主婦パートに至るまで、労働条件の明示義務は必然的に詳細化しなくてはならないだろう。(今も形式的には明示化義務があるが、その実効性が裁判規範としても形成されていくのではないか。法規制の秩序として)


市場絶対主義に基づく法制の再編を言うときには、雇用主and/or使用者に係る契約上の権利義務についての処理負担も増すこと、既に個別労使紛争処理制度は発足したが、紛争処理コストや紛争発生に伴う社会的コストも考慮してもらうべきだろう。価格・コストに基づく需要供給だけで見えざる手が働くと進行している皆さんについては、特に。


イメージとしては、市場で需要と供給、価格と費用が均衡する裏にあるいろんな社会モデルをどう想定するかなのだろう。市場志向的な、市民法的契約志向的な社会モデルは、付随して、企業のあり方、雇用のあり方、社会のあり方も作り替えるはずで、そこまで含めた国民社会的な「政治選択」だということなのだと思う。

労働法制の変化--緩和か再編か新たな規制か

労務やさんのブログで言及されていた、6.23労働政策研究会議での荒木東大教授のキーノートスピーチ。この20年近い労働法の変化と労働法を巡る日本の社会経済の変化をきれいに整理されたのだと思う。


キーワードは、①deregulation(規制緩和乃至撤廃), ②reregulation(規制再編), ③newregulation(新たな規制)。


新聞・テレビなどのマスコミの論調は、全てを①でくくって、持ち上げもすれば(小泉時代)、批判もする(今現在)という傾向があるが、荒木先生としては、工場法を引きずった画一的な保護法制から、多様な労働供給・需要がある現代の労働法を組み立て直したいのだろう。


しかし、それにしても、凡俗の目には、①が強く感じられ、②や③の要素を見落とす近視眼になるのはままあることだ。


客観的に観ても、①>②+③ではなかったか、というのが現時点での偽らざる感想だ。(労働法のオーソドックスを背負っていらっしゃる荒木先生の射程はもっと先にあるのだろうが)。


特に①は労働市場の規制に係る法令(例えば、職業安定法、いわゆる労働者派遣法等)や、個別の労働契約を労働契約を律する基準法中の法令(有期契約、労働時間法等)iに幅広く色濃く現れ、③の介護休業、育児休業法、パート労働法の均衡処遇、雇用対策法の募集採用に当たっての年齢差別禁止等、を量的にも質的にも凌駕しているように思う。


労働法的には、日本の使用者、実体的には日本の経営者が措かれている環境がことのほか厳しいためだろう。競争力の源泉がかつての商品のライフサイクルの相対的に長い時代&大量生産時代=プロジェクトX的な美しい企業と社員の一体性のエピソードに象徴される時代から、別の位相の時代に入っろうとしているためだろう。

労働者の多くを人的資本ではなく商品又は物品の領域に振り替えないと、株主重視という企業統治の軸の変化もあって、経営がしづらい時代なっいる。


労働法の「譲歩」=荒木先生の言う変質はその中で起こってきていると思われ、それを率直に言わない限り、逆に言うと労働法のレゾンデートルの確保も難しいのではないだろうか。


保護法から出発した法律が、保護と市場調整の両面を視野に入れた法律に変化していくプロセスなのだとおもう。日本のオーソドックスを支える東大労判研グループの気概が必要な時代ではないかか。法理論の論争において強力な対抗グループが存在しないし、不即不離であった労働行政の衰退は否定しがたいのが現状だ。そうした中での正統の責任は、かつてなく重いはずだ。


民間活力の迷妄・・・とてもよい話

公私ともにこの数日は忙しいので、よいお話しの紹介にとどめます。市場化テストを進めていく上で、考えなくてはならないことが多いのに・・・・考えずにブルドーザーみたいにやっていきたいひとがいる。そして、傷つくのは誰なのか・・・ということを考える上で大切な指摘だと思います。


私は、政府の役割、市場の役割といった経済学上の大議論に参加する知識も能力もないですが、「市場」の機能を重視し、「市場の失敗」よりは市場の成功又は政府の失敗を金科玉条のように信じ込んでいるか信じ込ませようとしている人たちの危うさを常々感じてきたので、以下に引用する指摘はとても具体的で分かりやすいものでした。


なお、以下は私がいいなぁと感心したコメント、http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_fcf0.html

hamachannのブログでの、とてもhamachannらしい記事に対するコメントです。


>ハローワークの市場化テストには、そもそも出発点で無理があるのです。労働者を労働市場における商品とすれば就職困難者は、採算のとれない商品です。売れば売るほど赤字がでる商品です。そもそも市場に馴染むものではない。官であっても、民であってもそれは同じです。

 (中略)


 市場化テストは、官が実施している事業の質を下げずに、さらにコストの低減を図らなければならないものです。就職困難者や若年者のキャリア形成支援については、現時点でさえ、国として負担しているコストが十分といえない状況です。それを更に市場化テストで削減しようというのだから、民間の人間が忌避するのは当然なのです。議事録のなかで、原専門委員が「~スキル的に言うと、ハローワークもかなりの実績を上げているし、民間が特に優れているわけでないかな~」と発言しています。民間事業者に魔法の杖があるわけではないのです。


 就職困難者や若年者のキャリア形成支援の実施主体は、民でも官でもよいのです。質の高い支援と、それに見合ったコストを国として負担しなければ、大量の中高年フリーターの滞留などは解消されず、大きな社会的リスクを抱え込むこととなるでしょう。
 「民間開放即ち善」という時代の空気のなかで、キャリア形成支援の困難性とコストをきちんと勉強しない市場原理主義者が、甘い見通しで強引に進めてきたこの度の市場化テストです。いざ始める段になって、民間事業者の実情と本音が露呈し、当惑しているというのが正直なところではないでしょうか。

派遣労働契約の終了=雇止め・・・これでよかったのか Ⅱ

労働者派遣法とは何だったのかということを改めて言わなくてはならない。


1985年の法成立当初、「正規常用代替を推し進める危険がある」との危惧から、専門性が確立された技能や特別な雇用管理が必要な業務に対象業務が限定され、かつ派遣期間も限定されていたが、それも度重なる改正の結果として有名無実になった。

いつの間にか26まで増えた専門的業務には、常用雇用代替防止の趣旨で設けられていたはずの派遣期間の上限はなくなっている。しかも、「専門的」の名の下で、定型的、縁辺的な業務を推測させる(5号)事務用機器操作、(8号)ファイリング、受付・案内、(16号)駐車場等管理の業務の就労者で26業務中52%をしめる。


伊予銀行事件は、26業務について派遣期間の上限が廃止される2003年以前のことであるため、致し方ないが、現在の派遣法では、「常用代替防止」の考えは、26業務については法文上はもとより制度運用上も考慮する必要はなくなっている。


仮想的に、上記事件が現時点でのものだとしたらどうなるのだろうか。

26業務に就労する労働者についてまで、なお、「常用代替防止」という派遣法制定当時の趣旨を当てはめ、同一企業に12年以上派遣された派遣労働者が「派遣による雇用の継続にについて強い期待感を持」について、「法の趣旨に照らして合理性を有さず、保護すべきものとは言えないと解される」と言うとしたら、現実に照らしてみても法に照らしてみても不合理となるだろう。


どのような立論があり得るかということになるが、法本来の目的である第1条「派遣労働者の雇用の安定その他福祉の増進に資すること」に着眼して、「6ヵ月の雇用契約が非常に長期にわたり繰り返されたことにより、雇用の継続にについて強い期待感を持つことは当然、その期待は、派遣労働者の雇用の安定その他福祉の増進という派遣法の趣旨に照らせば、その継続期待がどのような条件の下で合理性を有するかを検討する必要がある。派遣法がその立法時から配慮している派遣先の常用労働者の雇用の安定に関しても、長期間にわたり「パート派遣」との位置づけで就労してきた実態に鑑みれば十分に実現されており、仮に被告伊予銀行以外の派遣先に置き換えられたとしても、常用代替が危惧される蓋然性は低いことから、原告の期待の合理性を阻却するものとは言い難い。」と言うことは出来なかったのだろうか。


○派遣契約終了との関係

この事件の場合、上のように認定したとしても、登録型か常用雇用型かの認定において、「登録型」との認定がなされているために、単に「雇用関係の継続の期待の合理性」だけでは、有期雇用契約の終了を不法なものということは困難である。派遣元と派遣先の商取引契約の終了は、まさに「当該雇用契約が終了となってやむを得ないといえる合理的な理由」であるからだ。


商取引契約の終了が「当該雇用契約が終了となってやむを得ないといえる合理的な理由」とは見なされない場合とは、その商取引の終了が、当該雇用契約の終了を意図した不法なものであれば、取引自体の終了を覆すことは困難としても、当該取引の終了に伴って自動的に登録型派遣契約が終了するか否かが争われうると思われる。


例えば、派遣労働者の労働組合加入や加入の意思を知って当該労働者の派遣契約を終了したという場合、取引先の経済的圧迫が労働組合所属の従業員の解雇等を求めるものであることを受けて解雇の意思を形成した場合には不当労働行為が成立するという山恵系木材事件判決(最三小判昭46.6.15)の類推適用の余地があり得るのではないかと思われ、この場合には、派遣元企業による派遣労働者の雇い止めは、団結権の侵害行為として司法救済の対象となりうるのではないか。また、派遣先職場における職場における違法行為等の告発に対する報復としての商取引の終了といったものであると立証されるか類推される場合は、公益通報者保護法の保護の対象として考慮される余地が生まれる。公益通報に当たらないとしても、ハラスメント等職場内における人権の軽視等の状態を指摘し警告する行為は、それをもって雇用上の差別や不利益を受けた場合には保護の対象となりうるものと思われる。


ただし、本件事件にはこうした不法な商取引関係の終了を類推させる要素は乏しく原告側もこの点について、商取引契約の終了との関連では争っていない。「いまだISSと伊予銀との契約がソンすると解する事情、あるいは同契約が終了したと信義則上主張し得ないような事情があれば別異に解する余地があるというべきである」とはそうした趣旨だろう。