企業の人事裁量権法理をご破算にしては?・・・解雇権濫用法理の実定法化を批判するなら | 風のかたちⅡ

企業の人事裁量権法理をご破算にしては?・・・解雇権濫用法理の実定法化を批判するなら

ずっと気に掛かっていたのだが、解雇権濫用法理を、市場システムの機能を阻害するものと言う場合、メダルの裏表の関係で形成されてきた就業規則の不利益変更に関する判例法理や、配転、出向、転籍等等のいわゆる企業内「人事権」に関する判例法理も同時にご破算にする対応があわせて主張されるべしとおもう。


そうした覚悟のある主張ならば格別、それもなしに市民法的契約自由をという放恣に戻したいというのは片務的ではないか。日本の判例法理は、労働保護の側面と使用者又は経営権保護(言葉は適切ではないが)の側面を併せ持って形成してきたのではなかったのか。


契約自由原則は、一方では、企業が終身雇用を慣行としてきた層の労働者との契約を結ぶ際の白地性(契約書には、あなたを採用します以外は何も書かれていない)を見直し、少なくとも就業規則には、労働条件の変更がその都度の交渉によること(就業規則の不利益変更法理の見直し)、配置転換があること、他法人への出向や転籍があること、その際の労働条件は云々といったことを詳細に規定しなくてはならないだろう。少なくとも、日本の企業が自由に裁量してきた人事配置の裁量性を保持するためには。


日本企業が前提とした新卒一括採用を前提とすれば就業規則の詳細化ですむかもしれない(すまないかもしれない)が、「自由な労働市場」が実現した暁には、労働契約行為は、プロ野球のようなプロ人材の契約を頂点とするような明示化を求められる可能性が大であるし、主婦パートに至るまで、労働条件の明示義務は必然的に詳細化しなくてはならないだろう。(今も形式的には明示化義務があるが、その実効性が裁判規範としても形成されていくのではないか。法規制の秩序として)


市場絶対主義に基づく法制の再編を言うときには、雇用主and/or使用者に係る契約上の権利義務についての処理負担も増すこと、既に個別労使紛争処理制度は発足したが、紛争処理コストや紛争発生に伴う社会的コストも考慮してもらうべきだろう。価格・コストに基づく需要供給だけで見えざる手が働くと進行している皆さんについては、特に。


イメージとしては、市場で需要と供給、価格と費用が均衡する裏にあるいろんな社会モデルをどう想定するかなのだろう。市場志向的な、市民法的契約志向的な社会モデルは、付随して、企業のあり方、雇用のあり方、社会のあり方も作り替えるはずで、そこまで含めた国民社会的な「政治選択」だということなのだと思う。