形而上学(けいじじょうがく)

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形而上学はギリシャ哲学用語です。

現代の用法では、「そもそも愛とはなにか?」等、議論が事実を離れ、あまりにも抽象的になってきた時に、「そんな形而上学的なことばかり言うなよ~」というように使うことが多いと思いますが、元はアリストテレスの著書の一つです。

『デジタル大辞泉』によると「アリストテレスの著書の一つ」という意味の他に(関連して)次のような意味もあるそうです。

★ 形而上学とは、あらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問。
★ 魂・世界・神などを主要な対象として、現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存在者を、思弁的思惟や知的直観によって考究しようとする学問。

うーん。なんだか「形而上学」的になってきましたね(笑)ギリシャ哲学は弱いので、辞書の受け売り程度で許していただき、話を東洋思想の世界に引き戻します。

実はこの「形而上」という言葉、中国古典『易経』に出典があります。易経の解説書の一つに『繫辞上伝』(けいじじょうでん)があります。

ここに次の一節があります。

「形而上者謂之道。形而下者謂之器。」
(形よりして上なるもの、これを道という。形よりして下なるもの、これを器(き)という。)

「形よりして上なるもの」とは、形となっているものを超えているものであり、つまりは「形のないもの」という意味です。これを道(道理)と言います。

一方、「形よりして下なるもの」とは、形となっているもの以下のものであり、つまりは「形のあるもの」という意味です。これを器(器物)と言います。

道は道路のことではないですし、器も茶碗のようなうつわのことではありません。
簡単にまとめれば、次の通りです。

道:形のないもの(形而上)
器:形のあるもの(形而下)

パソコンも、マウスも、壁も天井も、目に見えるものは全て形のあるものですから「器」です。
形とは文字通り目で見て確認できるものが代表例ですが、耳で聞こえる音や、舌で感じる味など、五感で捉えられるものは全て「器」と思った方がよいでしょう。

一方、心、友情、愛、信頼など、形のないものは「道」です。この形のない存在である「道」が、形のある「器」を生み出します。

道は器の根本であり、器は道が形となって表れたもの。道と器は2つの異なったものではなく、切っても切れない、コインの裏表のような関係です。

仏教と関連して述べるならば、道とは無分別智、器とは分別智と言ってもいいかもしれません。この世界を認識するにあたって、無分別智的に「全てはひとつながりのエネルギーである」と捉えることもできますし、分別智的に「一つ一つがバラバラの物質である」と捉えることもできるのと同じようなものです。

私の話もまたまた形而上学的になってきました(笑)。これにて本日の解説を終わらせていただきます。

さて、明日から8日間に分けて、八卦の一つ一つを取り上げます。乾兌離震巽坎艮坤。自然現象で言えば、天澤火雷風水山地。八卦が分かると、易経だけでなく、九星気学の世界も透けて見えるようになります。ついつい「私は四緑だから風に興味があるな~」などと思いがちで、他の卦に興味が薄れてしまうこともあるかもしれませんね。

でも、9年サイクルの話を思い出していただくとお分かりいただけるように、9年に一度は「風の年」に巡りあい、「風に学ぶ」ことが大切になります。九星気学は人だけに当てはめるのではなく、時にも、そして方位にも割り当てることが可能です。自分に関係のない卦はありませんので、ご興味を持ってご覧いただけると嬉しいです。明日は六白の元ネタ「乾」(天)です。お楽しみに~♪