【天地同根万物一体】を取り上げます。用語解説を数ヶ月に渡り続けてまいりましたが、本日が最終回です。

天地同根万物一体は仏教用語です。最終回にふさわしい言葉ですね。

『碧巌録』(へきがんろく)等、禅宗系の書籍にこの言葉、あるいは似た言葉が散見されますが、中国曹洞宗の宏智正覚禅師という人が著した『頌古百則』の第九十一則に記載されているのが、一番古いようです。

天地と我は同根であり、万物と我は一体です。私たちは物事を分けて認識する世界に慣れ親しんでいるので、私と天地は別物だと思うし、私と私以外の人や物とは別々だと思っています。

でも、この慣れ親しんだ分別する意識を超え、無分別の境地に立つと、私と私以外のもの、究極的に言えば私と宇宙は一体であるということを体感します。

私は先日、天皇・皇后両陛下にお目にかかりました。両陛下の心のありようを一言で言うと「無私」(私がなく、公に生きる)だと直感しました。目の前にいる人に全てを捧げる。あるいは日本の平和、世界の平和に心を寄せる。そうであり続けるように、一瞬一瞬を生き続けている。そのように私は感じました。

無分別の境地は瞑想を通して味わいやすくはできているのでしょうが、瞑想をしていようがしていまいが、常に心を開いて、全てを我が事と思って生きていく、その生きざまが大切なことだと思います。

東洋思想・東洋哲学を書物の世界や概念の世界に閉じ込めていてはいけません。一人の世界に閉じ込めておくのももったいないです。素晴らしいことを学んだら、できることから実践していきましょう。自分から他人や環境に働きかけて、よりよい社会を築く礎(いしずえ)となりましょう。

これにて数ヶ月に渡って続けてきた用語解説を終了と致します。時には難解な解説になってしまったことや、力不足で本質に迫れなかった解説もあったことかと存じます。おつき合いいただいた皆様に、心より感謝申し上げます。どうもありがとうございました!
菩薩の52段階。当然の事ながら仏教用語ですが、正確には「菩薩の五十二位」と言います。
『華厳経』及び『菩薩瓔珞(ようらく)本業経』に記載されています。

『デジタル大辞泉』によると、次の説明がなされています。

菩薩が仏果(悟り)に至るまでの修行の段階を52に分けたもの。十信・十住・十行・十回向・十地および等覚・妙覚をいう。十信から十回向までは凡夫で、十地の初地以上から聖者の位に入り、等覚で仏と等しい境地となる。

例えば、十信は上から「願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心」という具合になっておりまして、十信だけでも十段階あるわけです。「十○」が5種類ありますから、これで50段階。これに等覚・妙覚が加わるので、全部で52段階となります。

ちなみに、私の師匠によると、6次元の世界は500段階のランクに分かれており、7次元の世界は52段階のランクに分かれているとのことです。私達はこの世での経験を通して魂を磨きいているわけですが、この世での人生を終えた時、一つでも上のランクに行くようにしなさいと先生はおっしゃっています。(ちなみに人間としては9次元が最高。10次元は地球意識、11次元は太陽意識という具合に、人間としての意識ではなくなります。)

この500の段階は五百羅漢から来ており、52段階は今回ご説明した「菩薩の五十二位」から来ていると私は分析しております。
小乗、大乗、金剛乗は仏教用語。

『デジタル大辞泉』によると「真言密教の異称」と、かなり短い言葉で解説されています。

もうちょっと詳しく考えてみましょう。

現世の迷いだらけの世界(分別意識の世界)と、悟りの世界(無分別の境地)の間には川が横たわっています。(…というイメージです。)

この川を渡るには船が必要です。

大乗仏教の人たちは、それまでの仏教を「自分一人が悟ることを主眼に置いている」として、「小乗」という名をつけました。小乗とはサンスクリット語で「ヒーナ・ヤーナ」といい、小さな乗り物という意味です。自分一人が乗ったら満員になる船というようなイメージです。

もちろん「小乗」とは大乗の人がつけた蔑称ですから、本人たちが「私たちは小乗である」とは言いません。彼ら自身は「上座部仏教」等と言っています。

これに対して、「大乗」とは、なんといっても「上求菩提・下化衆生」です。上には真理を求め・・・だけですと「小乗」ですが、これに「下には衆生を化す」(生きとし生けるものを悟りの世界に導く)というところまで視野に入れていますから、大勢の人を悟りの世界の川岸に連れて行く大きな船ということで、大乗(マハー・ヤーナ)と言っているわけです。

「大乗」仏教が上座部仏教を「小乗」と言ったように、密教徒は大乗仏教と自分たちが信奉する密教を区別しました。

顕教(けんぎょう)である「大乗」仏教に対して、密教は「金剛乗」(ヴァジュラ・ヤーナ)という概念を持ち出してきました。

顕教とくらべて「殊勝、堅固、秘密、絶対」であるという要素が加味されたのです。同じ大きな船ではあるけど、船の性能がぜんぜん違うんだよ、ということでしょう。