久しぶりの投稿です。

いったい私は何のために生まれたのか。
それは私も幼い頃から考えてきたことです。
ランドセルを背負いながら私には生まれてきた意味があるはずだと謎の使命感を感じながら過ごしていました。

独り言が大変多い人間でしたが、
ふりかえれば、そばにいる存在に語りかけ、
相談する日々だったのだろうと思います。

目に見えぬ存在に心奪われ、
心ここに在らずの子ども時代を過ごしました。

あることをきっかけに私は「私はこれを経験するために生まれてきたのか」と思うことがありました。

それは大した人生年数もない頃に起こったことながら、
「人生最大の最悪の出来事」ともいえる出来事でした。

今でこそ、その出来事はあって良かったこととは到底思えませんが、その出来事があったからこそ今の自分があると思うと、感慨深いものがあります。

ふりかえれば、こうならなければならない、と自分の生き方に制約をかけていました。たとえば、公務員になり、公務員と結婚しなければない、という考え方のように、、、。

こうならなければ幸せではない、というどこかの誰かが決めた幸せの定義や枠に自分が当てはまるように、模範的に生きようとしていました。

あの出来事を境にして、私はその生き方を180度変えざるを得ませんでした。

今私はとても幸せを感じられるようになりました。
それは、やはり、死ぬほどの辛い思いをしたからのようにも思います。命があって良かった、と素直に思えるようになった。

自分を不幸に縛り付けることもしなくてよいし、こうしなければならない、と自分の人生を決めつけることもしなくてよい。

これまでも、今も、そして、これからも最も大切なことら、いつ何時でも幸せを感じて生きていい、ということです。

私は笑ってはいけない
私は幸せになってはいけない

そんなことはないのです。

相談にくる多くの人が
幸せになれますか?と問います。

逆にお尋ねしたいのは、
幸せになる氣はありますか?
ということです。
そして、そもそも、
幸せを感じられていますか?
ということです。

ある人は
人は幸せになるために生まれてきた
と言いました。

まさにその通りだと思います。
何のために生きているのだろうと哲学的に悩むことはあっても、やはり、誰もが幸せになる、ために生まれてきたのは確かだろうと思います。

当然、人生常々幸せを感じられるほど明るい世の中でもありません。混沌とした世の中だからこそ、希望を持って生きることは難しいと私自信が痛感しております。

しかし、それでもなお、生きる、のです。
そして、生きる以上は、
人生最後に、幸せだった、と言いたいのです。
それは私の願いです。

今は辛いかもしれませんが、
日々のささやかな幸せを感じられるだけの心のゆとりをつくり、自分と他者に優しい社会を作りましょう。
これからを生きる七代先の人たちに恥じぬように。

私は関係ない、なんてことはこの世の中に何一つとしてないのですから。誰かの幸せを願う人が不幸顔では神様、仏様、はたまた宇宙とも呼べる存在が混乱します。この人は己が幸せでないのに、他者の幸せを願っている、これはいかなることか、と。

あなたが幸せであることが、隣人を幸せにすることの第一歩です。

長くなりました。
またお店でお待ちしております。