私は半年の間に最愛の母とデイジーを亡くしました。
母とずっと寄り添い生活を共にし母の変化を受け入れながら看取りました。
デイジーも母と同じような最期でした。
母とのお別れがまだ自分の中で整理できてないのに最愛のデイジーもいなくなりました。
デイジーを亡くした時に「母より辛い」と感じました。
どうしてだろう??
と私も思いました。
動物と暮らしていない人から見たら「信じられない」と思うでしょう。
両親の場合は、実家で飼っていた動物たちが旅立っても悲しんではいましたがすぐに受け入れて元気にしていました。
年代にもよるのだと思います。
動物達との関わり方も違っていました。
私たちは動物に依存しているところがあります。
深く関わりすぎるのかもしれません。
ほんの二ヶ月でしたがデイジーと生活していて、デイジーがいなければ弟は母の看取りをできなかったのではないだろうか?と思うほど心の拠り所にしていました。
弟にデイジーが旅立ったことを伝えると
「十分に生きたんだから悲しんだら可哀想だ。あんな小さな体で一か月も闘病していたんだね。よく頑張った。」
そんなWeChatが来ました。
弟らしいな・・・そう思いました。
きっと両親も同じようなことを言うだろうと思いました。
父の時は肺炎で苦しんでいたので「早く楽になれたらいいのに」と思いました。
旅立った時に「もう楽になった。良かったね。」心から思いました。
母の時は治療をしていないので「闘病」という感じは全くなく、日々変わる様子を見ていました。
そして余命宣告もありましたので、葛藤はありましたが受け入れていました。
母の見事な潔く美しい旅立ちを見せられて、残された家族としては何も言うことはありませんでした。
母がいなくて辛くて悲しいと思ったことはありません。
寂しいとはいまも思っています。
デイジーの時は「執着」がありました。
受け入れられない自分もいました。
じたばたしてデイジーに叱られました。
動物を失うことは、子供を失うような辛さがあります。
それは動物は何歳になっても愛らしい姿があるからもあります。
人が年を取り見るからに老いているのと、動物はシニアになるほど可愛らしさが増します。
人は70、80代になるとなんとなく「そろそろお迎えが・・」のように死を意識するようになります。
動物だって同じような年齢になって衰えていくのに、どうしても12歳、15歳・・となると「まだ12年しか経っていない」と思ってしまいます。
人間で言ったら小学生とか中学生です。
でも身体の中身はシニアです。
そのギャップもあります。
動物はとにかく可愛い。
可愛いから離れたくない・・・
姿がないことを受け入れられない・・・
それはもう可愛いから。
それに尽きます。
動物とのお別れは人のお別れより辛いです。
だって可愛いんだもの。