それが体調不良なのか食欲がないのかまたはめんどくさいのか私にはわかりませんでした。
母も「わからない」と言ってました。
入院してからの1週間、病院のご飯を良く食べていたそうです。白米には手をつけずおかずは完食していたそうです。
これを聞いてビックリしました。
内視鏡検査の後、主治医から「これだけはやらせてください」と大腸にシャントを入れて便の出をよくする処置をしています。
腸閉塞を防ぐためです。
朝、様子を見に行くと「寝られなかった」と言ってました。
「ベッドは快適なのに寝られなかったわ。お腹がすき過ぎていたのかも。」
茹で卵を1個食べて、私が食べようとしていたチーズトーストを「それ食べたい」と平らげていました。
「美味しく食べられるって幸せだね。美味しいね。今夜は豚カツにしようね。」
ご飯を美味しいって感じるのは「健康」だからですよね。
昨日は訪問看護や在宅医療で必要なために母の写真を撮っていました。
退院当日で1週間お風呂にも入ってなくてお化粧もしていないのに、すごく綺麗に撮れていました。
「あら?私すごく綺麗だわ」と喜んでいて昨夜から今朝も「写真綺麗だったよね?なんでかな?」と何回も聞くので「体調が良いんだよ」「元気なんだよ」そう言うと「そうなんだよね」
在宅医療の先生に、これまでの経過を話し余命の事も聞きました。
主治医の言葉を否定しませんでしたが「うん、でもね。いまご飯食べてるでしょ?歩けるんでしょ?便も出てるんでしょ?自力でご飯を食べられず寝たままになっていたらそうかもしれないけれど、たくさん食べて家の中を歩いていてね。人混みを避けて外にも行くの。身体が整って日常生活をこれまで通りに送ってごらん。」
大学病院の主治医のバッサリ「僕の直感では、お母さんは〜」の余命宣告と在宅医療の医師の「日常生活を送る中で変わってくるよ。普通に過ごしてごらん」
全然違う。
命の向き合い方が真逆です。
母が「先生の手に負えなくなったらまた病院に戻ります」と言うと「僕がやらないのは検査だけです。手に負えないものなんてありません。ずっと家にいられますよ。」
母にはもう検査なんて必要ありません。
昨夜、母とも話しましたが父がむくみで手足パンパンなのに検査のために針を刺され血液が取れないからあちこち刺されていました。
父も私達も「もう検査は良いですから、楽にさせてください」とお願いしても「何か肺炎に効く薬がわかるかもしれません」と聞き入れてもらえませんでした。
病院は治療を優先にします。
治ろうが治らなかろうが。
それが病院のお仕事だから。
それも正解です。
私も病気になれば適切な治療は受けます。
でも高齢だったり病気の状況により選択肢はあって良いのです。
父の時に「統合医療がもっと広まれば良いのに」と思いました。
母のいまには「動物にも在宅医療が広まれば良いのに」と思います。
私は昨日の在宅医療の先生の言葉に救われました。
今朝から母に厳しく「自分でやりなさい」と、出来ることはやってもらいます。
一つの「事実」があるにしても「言葉一つ」で周りを取り巻く現実は変わります。
陽だまりのしっぽ 美香