南北朝時代から室町時代にかけて、「湯川氏」という一族が日高地方で大きな勢力を誇っていました。紀伊国の歴史を語る上で欠かせない存在ですが、教科書で取り上げられることはほとんどありません。
中世の日高はどうなっていたのか。謎につつまれた湯川氏の歴史を辿ってみたいと思います。
◆中世の紀伊国

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、幕府の地方機関として、全国に守護を置きました。室町時代になると、幕府と有力守護との間で軋轢が生じるようになります。それによって紀伊国の守護もたびたび入れ替わっています。
南北朝時代の動乱後、紀伊国守護に就いたのは山名義理でしたが、一族の山名氏清が起こした反乱によって義理は職を奪われ、代わって大内義弘が守護職となります。しかしその8年後、義弘もまた幕府に反旗を翻し、幕府軍によって滅ぼされます。義弘に代わって守護となったのが当時幕府の中心人物として活躍していた畠山基国です。これ以降、畠山氏が代々守護職を務めることとなります。
◆国人領主・湯川氏

幕府は各地で勢力を伸ばす守護をけん制するため、各地の有力国人を将軍直属の軍事力として編成しました。彼らは奉公衆と呼ばれ、そのうち日高地方を拠点とし、「紀伊国最大の国人領主」と言われたのが湯川氏です。
湯川氏は現在の田辺市の出身とされ、源氏の流れをくむ一族です。小松原(現在の御坊市)に根拠地を移した湯川氏は、日高平野を一望できる山上に亀山城を築きます。敵との戦闘に備え、標高120mの山全体に塀をめぐらせた、日高を代表する山城です。しかし山の上では生活や統治に不便なので、山のふもと(現在のJR御坊駅南側)一帯に屋敷を構え、そこで暮らしていたそうです。
◆統治の終焉

やがて幕府の主導権をめぐり、将軍を補佐する細川氏の内部で権力争いが続きました。やがて細川氏の家臣・三好長慶は主君に反旗を翻して挙兵します。日本史の教科書で下克上の典型とされる出来事です。
湯川氏の当主・直光も参戦しますが、摂津(大阪府)で長慶の軍勢に敗れてしまいます。山科本願寺の助力により無事に居館に戻った直光は、感謝を込めて現在の美浜町吉原に一堂を建立し、息子を出家させ住職としました。
その後、当主・直光が三好氏との戦いで戦死したため、長男の直春が当主となります。直春は父と同様に本願寺と友好関係を築いたので、本願寺と敵対関係にあった織田信長と対立、本能寺の変の後は羽柴秀吉と対立します。
天正13年(1585)、天下統一を目指す羽柴秀吉の軍勢が日高地方に押し寄せます。直春は亀山城にこもって応戦しますが、秀吉軍の立て続けの攻撃にあえなく城は陥落。こうして「紀伊国最大の国人領主」湯川氏の統治は終わりを告げたのでした。
◆その後の湯川氏

湯川直春の子・光春は、羽柴秀長(秀吉の弟)に仕えることとなりました。秀長が亡くなると浅野氏に仕えます。関ヶ原の戦いの後は主君とともに安芸国(現在の広島県)に移り、宮島奉行などをつとめたと伝わります。
湯川直光が建立したお堂はのちに移転され、そこを中心として寺内町が形成されました。これが地元の人々から「御坊さん」と親しまれる本願寺日高別院のルーツです。
また、湯川氏の居館があった辺りには今も「湯川町小松原」の地名が残っています。
謎につつまれた湯川氏の足跡を、皆さんも辿ってみませんか。
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