スポット035 東 瀛 遊(トオエイユウ) | ひぼろぎ逍遥

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スポット035 東 瀛 遊(トオエイユウ)

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20150514

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


研究会のスケジュールの合間を縫って、鹿児島市の城山観光ホテルで行われた第74期将棋名人戦第三局(羽生善治名人VS佐藤天彦挑戦者)の大盤解説会に行ってきました。

一応、地元佐賀県の某将棋連盟に参加していましたが、最近は将棋を指すよりも見る方が楽しく、もっぱら大盤解説会に参加するだけになっています。

このため、一セット35万円也(歩一駒一万円相当)の虎斑入りの八丈柘植の駒も仕舞い込んで冬眠状態にあります。


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タイトルを読まれた上に、場違いな将棋の話が飛び出して来て、冒頭から驚かれたでしょうが、勿論、将棋の話をする訳ではありません。

 ここで、見掛けたポスターに「東 遊」(トオインユウ)という文字を見たと言うだけの至って単純な話です。


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話には聴いていましたが、城山観光ホテルは車中泊族にとっては高嶺の花の超高級ホテルです。

 30年も前の昔は、鹿児島なら妙見温泉の石原山荘とか指宿温泉の白水館といったハイクラスのホテルや旅館を利用していたこともあったのですが、今や民俗学徒を気取り地べたを這いつくばるような旅をするのが当たり前になっています。

 将棋の方は、もう20年も遠ざかっており、刺さない将棋ファンですが(相撲や歌舞伎ファンはそんなもの)、結果だけは申し上げておきます。第三局は28歳の挑戦者佐藤天彦の勝ち(二勝一敗)となりました。

どうやら、26日に広島県福山市で行われる第四局二日目の大盤解説会にも行き、また広島県の山中に入り込み未踏の神社を見て回る事になりそうです。

 さて、本題に入りましょう。ロビーを徘徊していると、非常に面白いポスターに目が留まりました。


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ご覧のとおり、中国からの旅行団を熱烈歓迎するというポスターですが、この「東瀛遊」とはイースタン・グローバル・ツアーなのか?イースタン・エイ(Gはサイレンス?)・レジャーなのか不明ですが、中国の旅行会社の名称なのです(これもネット検索でエバーグロスツアーズの意味と判明)。

始めは「体験温泉」が旧字の「體」と書かれていることから(日本も戦前は體操と書いていたのです)、今でも難しい漢字を使い続ける台湾の代理店かと思ったのですが、後で分かったのですが香港の旅行会社だったのです。

これだけなら、何を言っているのだろうと思われるでしょうが、当ブログを丹念にお読みの方は思い当たられると思います。お読みでない方はこれらをご覧ください。


ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

 159 秦の始皇帝と市杵島姫

同(跡宮)   106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

054 秦の始皇帝と市杵島姫

「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、臝政(エイセイ)と呼ばれていました。

対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿馬毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。

 彼らは秦が滅びる前に海を渡り列島に入っていることから、さんずい偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。

 これらの事は後で触れるとして、この「東瀛」とは大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものを意味しており、恐らく、その事を認識している一族によって創られた会社が、この「東瀛遊」であろうとの発想が走ったのでした。

 してみると、香港もいつでも東南アジアに移動できる亡命地のような場所であり、列島に逃れた中国ナンバー・ワン秦帝国の始皇帝と姻戚関係を結び列島に移動した一族の一部である可能性があるのです。

 列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役 小角の一族がそれに当たるのです。

 そこまで考えれば、「東瀛遊」の社長が袁(エン)文英氏(清末期の袁世凱の一族なのでしょうか?)

であることは、今もその法則性が二〇〇〇年を越え働いていることに感動をすら抱くのです。

宗像大社の市杵島姫も本来の表記は「瀛津嶋比売」ですね。



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文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(朝倉市佐田町の高木神社の境内摂社)


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 178 参照


朝倉市佐田の山奥深く瀛津嶋(イツクシマ)比賣命を発見した!”安倍貞任後裔の秘密集落の高木神社“


  名人戦は終局が夜ふけに及ぶ事が多々あります。翌日が久留米大学の公開講座の初日のため、局面も逆転の可能性がなさそうでしたので、終局を待たず早い段階 で引き揚げましたが、今回は二日目の封じ手以降、つまり観戦の最初から最後まで羽生名人に良さそうな局面はなく、ある意味で一方的な一曲でそれほど面白く はありませんでした。

 唯一、面白かったのは、副立会人の木村一基八段と偶然トイレで隣り合わせの連れ○○○になった程度で、終局も確認せず足早に駐車場に向かいました。

 すると、正面に「東瀛遊」社のツアー・バスが駐車していたのです。


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運転手さんがおられましたので、「これは普通の方はなかなか読めないと思いますが、実際には“トウインユウ”か“トンエイユン”…と呼んでいるんではありませんか?とお尋ねすると、“「トウエイユウ」で良いようです”とのお答えを頂きました。

 しばらくお話をしましたが、一つだけ非常に面白いことを言われていました。

 それは、“「東瀛」けで日本を意味していると聞いています”と言われた事でした。

 私がにやりとした事は言うまでもありません。

瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱•方丈)の一つ。

転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。

魏晋南北朝時代の487年から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。

ネット上の某辞書から


 まさに、二千年を越えた大陸の歴史を見た思いがしたのです。

 将棋より面白い発見に遭遇して何か得したような気分で、一路、無料の南九州自動車道を通り悲惨な状態に陥っている熊本方面に向かい戻ることになりました。

 翌日は昼から古田武彦亡き後ナンバー・ワン研究者の佃 収先生の講演を聴くことになるのです。


秦の始皇帝と市杵島姫



奇妙な題名に見えるかも知れませんが、だんだんとお分かりになってくる事と思います。

秦の始皇帝と言えば古代史どころか歴史一般に関心を持たれない方でもご存じの中国古代史上最大のスーパー・スターですが、その名前はと言えば答えに窮する方が続出するのではないでしょうか?しかし、


1. 【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇
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(シーフアンティ) または秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した


と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の瀛津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。


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市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ[1]

転じて、日本を指す[2]。「東瀛(とうえい)」ともいう[3]。日本の雅称である[4]

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方に ある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海 から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃ まぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイス ラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年 昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に 行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというとこ ろです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、 アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレ キサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。

相 良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝 第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地がありま す。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに 住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをも らって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観 音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれた うちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右 下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さ んも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というの は日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽 神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名 前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなっ たかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わない のですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。

以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより


お分かりいただけたでしょうか?

百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。

紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。

その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し瀛」を姓としたのでしょう。

ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。

この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。


ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこのイン族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。

 ただ、氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉姫(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。

 一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5、6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。

 日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。

 政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


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