082 菊池市泗水町の久米八幡宮に謎の石積みがある  | ひぼろぎ逍遥

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082 菊池市泗水町の久米八幡宮に謎の石積みがある      


久留米地名研究会 古川清久

20140517


熊本県菊池市泗水町豊水525に一見の価値のある古社があります。

祭神は例により、品陀和気命(応神天皇)ホムダワケノミコト(応神天皇)です。


『品陀和気命』は、第15代天皇『応神天皇』の諱(いみな)。父『仲哀天皇』、母『神功皇后』の間に生まれた第四皇子である。

まず、久米と言えば、久米の皇子、久米島…といった連想が走りますが、「古事記」には、

(原文)

美都美都斯 久米能古良賀阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖宇知弖志夜麻牟 

(読み)

みつみつしくめのこらが あはふには かみらひともと そねがもとそねめつなぎて うちてしやまむ

みつみつし久米の子等が 粟生には 臭韮一本 そねが本 そね芽繋ぎて撃ちてし止まむ

(書き下し)

久米部の者たちの粟畑には臭いニラが一本生えている。それの根から芽まで繋いで抜き取ってしまうように、(敵を一繋ぎにして)撃ってしまおう


とあります。


神武歌謡とも言われますが、さしずめ、神代記に登場する、海兵団、海軍陸戦隊の趣を呈しています。ただ、その武装となるとくめのこらがくぶつつい いしつついもち いまうたばよらし

のように、頭

椎や石椎(の太刀?)となりますので、当然にも原始的です。

この舞台は、古田武彦氏により糸島半島ではなかったか?とされたことは記憶に新しいところです。

神武歌謡は生きかえった―古代史の新局面



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静かな杜に鎮座する古社が嬉しい


 ともあれ、久米八幡宮という社名には多少の違和感を覚えます。

久米という地名と八幡宮というものが直ぐには繋がり難いのです。しかも、社殿には違い鷹羽という阿蘇の健磐龍(タケイワタツ)系の神紋があり、私の乏しい知識ではどのように考えても、久米に八幡が、そして、阿蘇が覆い被さってきたとしか考えられません。

ただ、ここではそういった祭神のどうのという話に踏み込みません。

菊池(川流域)地名研究会の主要メンバーの一人である宮司にお任せすれば良いでしょう。


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ここでは、この境内に数十年前まで埋もれていた謎の石積みをご紹介したいと思います。

 かなりの広さのある境内を取り囲むように蛇行した石垣が築かれているのですが、鱗を意識したような白い石英質の石が置かれ、手とも足とも見える突起もあることから、蛇ではなくやはり龍を模ったものであろうと思います。

 この種の物にはほとんど類型がありません。

何故この地に置かれたのか、何故埋もれていたのか、造られたのは何時なのか?…と連想は走ります。

 また、頭部と思われる少し高め、大きめに作られた部分の先には、縄文期のポールと思える石柱も置かれており、実は、歴史以前に遡るものとも考えられそうです。

 これについては、当方も各方面にお知らせしましたが、東京の多元的古代関東のメンバーや神功皇后紀を読む会の福永晋三氏からも、これと同種のものを対馬の天神多久頭魂神社の境内地で見たことがあるとの情報を複数頂きました。

実は、対馬在住の郷土史家と言うより民俗学者の永留久恵氏の大著「海神と天神」を手に、十年近く前に訪れたことがあるのですが、禁足地との意識から奥深く分け入って見ることをしていません。

 迂闊と言えば迂闊ですが、今からでも再訪しようと考えています。

以下は、HP「玄松子」からの切り出しです。




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天神多久頭魂神社



長崎県対馬市上県町佐護洲崎西里286 長崎県対馬市にある。上対馬の北部、佐護洲崎に鎮座。

佐護川の河口部、佐護湾近くにあり、社前に棹崎公園の看板がある。

境内には社殿はなく、神籬磐境の祭祀形態。

境内奥の鳥居の後方、階段の上に鏡?が祀られている。

創祀年代は不詳。式内社・天神多久頭多麻命神社の有力な論社。

『對州神社誌』に、天道大菩薩とあるように天神多久頭魂とは、いわゆる天道と見なされており佐護川対岸の千俵蒔山と相対する位置に天道山がある。『對州神社誌』には天道山を「麦百俵蒔程之山」と記されており、雄嶽(北側)と雌嶽(南側)の二つの峰があって、雄嶽の頂上に鎮まっているという。

対馬の北部の港にあり、半島に近い場所。そのため、千俵蒔山には、防人が配されていて頂上に「烽(のろし、とぶひ)」の跡がある。

とういわけで、当社境内は天道山の遥拝所にあたる。対馬の南端、豆酘の龍多山には多久頭魂神社が祀られており北に在る当社と、対を成している。天皇の即位の際に執り行われる大嘗祭では、悠紀(ユキ)殿と主基(スキ)殿が設営され、京都以東以南の悠紀地方と、以西以北の主基地方の両地方の斎田でとれた新穀を献上する。

よって、対馬の南北にある多久頭魂神社を、当社を「主基(すき)宮」と称するのに対し、豆酘の多久頭魂神社は「悠紀(ゆき)宮」とする。

悠紀と主基が何を意味するのか明確になっていないのだが、一説には、軍事を表す靭と、農事を表す鋤であるとする。軍事・農事を掌握統治し、政治・神事の長とする儀式とする。


 対馬市厳原町豆酘(ツツ)の多久頭魂神社(タクツダマ)と佐護の天神多久頭魂神社は、海神神社、和多都美神社や船越の阿麻氏留(アマテルの氏*は氏の下に一)神社と併せ最も訪問したかった神社でした。

 この石積みに関連があるかどうかは、なお、保留していますが、対馬だからと言って、直ちに半島系のものといった評価は早すぎるのではないでしょうか、まず、ドラゴンは江南系のものと思われるからです。

 とにかく、対馬の赤米までも半島経由の物といった評価をしてしまうのが、現在の佐原 真の流れの学会通説なのですから落ち着いて考えることにしましょう。

 実は、対馬の下県に太祝詞(フトノリト)神社というものがあるのですが(天理市にも同名の神社が…)、この久米八幡宮のある久米の隣の集落に、太(フト)神社と呼ばれるものがあるのです。

 今のところ、関連はこれしか掴んでいません。久米八幡の宮司と対馬に入りたいですね。

 ともあれ、この巨大な龍の石積みは、ぜひご覧になって下さい。宮司に直接お話を聴くことが出来るかも知れません。

 蛇、龍は金運に通じるとのことですから、その手のあやかりで訪問される方にも等しくご利益はあることでしょう。