日々是学ぶ! -7ページ目

日々是学ぶ!

歴史は糸玉のようなもの、とわたくしめは思っております。
歴史はありとあらゆる出来事が絡まって出来上がる物でどの糸を辿るかで糸玉の色は様々に変化致します。
わたくし大宅世学、未だ未熟者ながら皆様と歴史を観測し語り合いたく存じます。

松倉勝家と言うと知る人ぞ知る有名な大名で御座います。

日本史における悪党ランキングを作ったとして、こやつが上位に来るのは間違いない事で御座いましょう。

なんとこいつ、江戸時代通して斬首された初めての、そして最後の大名なのですな。

武士は己の罪を己で償えるが故、切腹が許されていたのですが、

そんな名誉刑である切腹ではなく、

斬首という結末を辿ったこの男。

一体何をしでかしたのか?

島原の乱のお話で御座います。

【島原・天草の乱】

元々島原キリシタン大名有馬晴信の領土でありました。

その為領内でもキリスト教が広まっていたのですが、

有馬氏転封となり、代わってやってきた松倉重政が問題だったのです。

幕府への見栄で江戸城改築を請け負う、ルソン島調査隊を派遣する、島原城を新築する、

その上領民から年貢を加重に取り立てた。

更にキリシタンを弾圧し、年貢を払えない農民と一緒に拷問する等、

とても大名とは思えん圧政を敷いたので御座います。

そして重政の息子、松倉勝家もこの政治姿勢を継承、

否、更なる圧政を敷いたので御座います。

人が産まれたら税、死んだら税、窓に税・・・。

と凄まじい重税を課し、

払えなければ妻子を水牢に放り込み、

または蓑を着せて火を着け、これを蓑踊りと呼んで喜んだりと、

とんでもない鬼畜の所業を行っていたので御座います。

遂に領民はかつての有馬氏の家臣の下で一揆を結び、

1637年、遂に蜂起したので御座います。

島原だけでなく、同じ様な支配のされ方をしていた天草の領民も一揆に加わったので、

島原・天草の乱という言い方もあるそうです。

何故こんな事になったのか。幕府はなにをしていたのか?

こんな事態を招いたのは実は幕府の支配体制に理由があるのだとか。

当時、日本は江戸幕府による幕藩体制によって支配されておりました。

これは幕府による一元的な支配ではなく、多数の藩を幕府がまとめる、という今でいう連邦国家に近い支配でありました。

その為九州地方程離れていると幕府の監視の目が届かなかったので御座います。

また藩は他藩の内情について介入してはならない、と定められていたので、

九州地方の藩は島原・天草の内情について幕府に報告するとか、

一揆を鎮圧する軍を送るといった行動が出来なかったそうな。

その結果、一揆勢は膨れ上がり、

遂には捨てられていた原城を占拠。

ここを本拠として頑強な抵抗を行うに至ったので御座います。

幕府はこの事態を重く受け止め、

御書院番頭であった板倉重昌を上使とする討伐軍を送ったので御座います。

幕府はこれで一揆は鎮圧出来ると考えておりましたが、

そう考えていなかった人物が御座います。

柳生新陰流の達人・柳生宗矩で御座いました。

宗矩はこの時66歳。徳川家光の剣術指南役としてその手腕を振るい、

遂に1万石の大名にまでなっておりました。

宗矩はこの時能を見ていたそうですが、

板倉重昌が大将になったと聞くと馬を駆って川崎まで追いかけたそうでございます。

されど追いつくことが出来ず、

今度は江戸城に駆けに駆け、

家光に謁見を求めたので御座います。

そして

「板倉殿が上使として出発したと聞いて駆けて参りました。これは本当ですか?」

と聞き、真と聞かされると

「上様も考えが甘い!それでは板倉殿は討死する事になりますぞ!」

と叩きつけたそうな。

面と向かって(しかも深夜に)考えが甘いと糾され、家光は不機嫌になって席を立ってしまいましたが、

宗矩がずっと待ち続けているので戻って

「余のどこが考えが甘いというのか?」

と聞いたそうで御座います。

そして宗矩

①この一揆は単なる一揆ではなく宗教による一揆である事。

②この場合、指導者は民衆を死ねば極楽に行けると煽るので一揆衆は死を恐れなくなる。死を恐れない兵ほど恐ろしいものはない。

③そうなれば一揆の鎮圧は簡単にはいかないだろう。

④しかし板倉重昌は幕府の上使とはいえ、1万石の領土しか持たず九州の大名達は彼の指示に従わないであろう。

⑤故に確実に一揆は鎮圧されず、そうなれば幕府としては格の高い上使を送らざるを得ない。

⑥しかしそれは板倉重昌の面子を潰すことになる。そうなれば重昌は増援が来る前に決着をつけようとする。そして死ぬ事になるだろう

「私が思うところ、板倉殿は優秀で彼を死なせるには惜しい。そこで川崎まで追いかけ追いつければ上様の命令だと嘘をついてでも止めるつもりでした。しかし追いつけなかったのでここに参上しました。いかがいたしましょう。」

ここまで聞かされ家光も己の過ちに気付いたので御座います。

「幕府の上使」なれば九州の大名どもも従うと思ったのはうかつで御座いました。

しかし最早板倉重昌を止める手段は無く、

家光としても宗矩を下がらせる他ありませんでした。

後は宗矩の予想が外れ、

重昌が見事一揆を鎮圧する事を祈る事しか出来なかったので御座います。

                              話者    大宅世学