時は江戸時代、幕府は諸藩を武力で支配する武断政治を敷いておりました。
ところがその結果、藩が取り潰され職を失った武士が急増。
遂には幕府転覆を企てる由井正雪の乱、所謂慶安の変が起きてしまいました。
これを機に幕府は政治を改め、
礼と忠義を重んずる文治政治を行う事にしたので御座います。
さてまずは末期養子の禁の緩和でありました。
末期養子とは殿様が危篤となった時に養子をとる事で御座います。
実はこれ、当初は禁止されていたのですな。
何故ならば武家は家督を継ぐ後継者を幕府に届け出ねばならないと決まっていたからで御座います。
その為末期養子がこの条件を満たす事が非常に難しいので御座います。
何しろ幕府が後継者が嫡子たることを審査してその結果を届けるまでには時間がかかります。
その間に殿様が死んでしまえばその時を以ってその藩は改易、取り潰しという結末を迎えるわけで御座います。
何故末期養子が認められなかったかというと、末期養子はその正統性が疑わしいという面と藩をコントロールするのに効果的であるという面とが御座います。
つまり、末期養子を認めてしまえば家臣が主君を暗殺して都合の良い跡継ぎを据えようとする、という事態を招きかねません。更に殿様の自称ご落胤なんてものが出てきて藩が混乱するといった事態も起こり得ます。
そういう事が起きないよう、当主は己の後継者はしっかり決めておけ、と幕府は言っていた訳ですな。
更に末期養子を認めない事で幕府は藩を実質的に支配出来るので御座います。要は将来幕府に刃向いそうな藩は後継者を拒否すれば良い訳です。そうなれば藩はそのままだと改易されてしまうから幕府の指導に、または命令に、従わざるを得ないというワケですなあ。
これは確かに清濁併せもった妙薬でしたが如何せん効き過ぎた。
後継者争いを治めきれなかった藩が悉く改易処分になってしまい、
その結果失業者が山積み、という状態が出来てしまったので御座います。
流石に幕府もこれを反省し、
慶安の変と同じ年、1651年には幕府は条件付きで末期養子を認める事にしたので御座います。
こうして牢人対策を行いつつ、幕府は更なる改革を行う事にしたので御座います。
それが1663年の殉死の禁止で御座います。
これは今までの気風を改めるために出したものであるとか。
殉死の禁止による面白い効果は後で番外編にて行いたいと思います。
1664年には家綱は全ての大名に領知宛行状を発給し改めて幕府の権威を示すと、
並行して幕領の検地を行い幕府の収入の調査を行ったので御座います。
さて、次回は愈々漸く、
犬公方徳川綱吉のお話で御座います。
話者 大宅世学